中国の政治家、思想家で、中国共産党創立者の一人。字(あざな)は守常、筆名は明明。河北省楽亭の生まれ。北洋法政専門学校卒業後、1913年(大正2)留学生として来日、早稲田(わせだ)大学政治経済学部に入学、1916年帰国。1918年北京(ペキン)大学教授兼図書館長となり、『新青年』の編集に参加。また『毎週評論』を創刊、ロシア革命ののち、「庶民の勝利」「ボリシェビズムの勝利」などの文章を発表してマルクス主義、ロシア革命を紹介し、大きい影響を与えるとともに、1919年に始まる五・四運動で指導的役割を果たした。1920年コミンテルン代表と上海(シャンハイ)で会い、同年北京に共産主義者のグループをつくり、1921年中国共産党の創設にあたった。国共合作に際しては孫文に協力して指導的役割を演じ、1924年のコミンテルン第5回大会にはモスクワに赴いた。第一次国共合作下の国民革命の際は、北京にあって、北方工作を担当していたが、1927年4月張作霖(ちょうさくりん/チャンツオリン)によって逮捕され、刑死した。中国共産党初期の優れた指導者であった。
[安藤彦太郎]
『森正夫著『李大釗』(1967・人物往来社)』
近代中国の学者,マルクス主義者。字は守常。河北省楽亭県の人。1913年,北洋法政専門学校卒。翌年,湯化竜の援助で早稲田大学に留学。中国人留学生を組織して袁世凱の帝制運動,日本の二十一ヵ条に反対し,また社会主義思想の洗礼をうけ帰国した。17年,北京大学図書館長(20年に教授)となり,第1次世界大戦の終結を〈庶民の,ボリシェビズムの勝利〉として高く評価する文章を発表しロシア革命にも共感を示す。陳独秀とともに新文化運動の指導をにない,《新青年》《毎週評論》の編集に参与して中国におけるマルクス主義の啓蒙活動に尽力。21年,中国共産党創設後,北方における重要な党員として孫文にコミンテルンの使者を紹介,24年の第1次国共合作に大きく貢献した。27年4月,張作霖に捕らわれ絞殺された。能動的マルクス主義を説き,早くから女性運動,農民運動にも理解を示した。毛沢東が一時期,北京大学図書館司書としてその下に働いていたことは有名である。著作は《李大釗選集》《李大釗詩文選集》などに収録されている。
執筆者:河田 悌一
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1889~1927
中国共産党の初期の指導者。河北省楽亭県の人。日本に留学したが,二十一カ条要求に反対して帰国。『新青年』によって引き起こされた反封建主義の新文化運動に参加,ロシア革命の意義を明らかにし,ついで胡適(こせき)の改良主義と論争し,マルクス主義を系統的に中国に紹介した。1921年の中国共産党の創立に参画,孫文と国共合作に尽力,国民党中央執行委員を兼ねた。華北における共産党,国民党の指導者であったため,張作霖(ちょうさくりん)により絞殺刑に処せられた。
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…24年1月,広州における国民党第1期全国代表大会では,連ソ・容共・労農援助の三大政策をともなう新三民主義の旗印のもと,国共合作の方針に見合う改組が断行され,反帝国主義・反軍閥の革命綱領が確定された。中央執行委員には李大釗(りたいしよう)ら,同候補には毛沢東ら共産党員も入り,ボロジンが最高顧問となった。五・四運動と十月革命の影響で民衆の力量に注目するにいたった孫文にすれば,中国共産党の活動力を取り込み,中国を平等に遇するソ連と提携して革命をすすめようとしたのである。…
…前者は辛亥革命後の軍閥支配に抗して中国の出路をもとめていたインテリたちである。もっとも有名なのは,《新青年》に拠って新文化運動を展開した陳独秀,李大釗(りたいしよう),胡適,魯迅らのグループである。彼らは,民主と科学の旗をかかげ,中国の封建倫理の中核である孔子の教えを根底から否定しようとした(打倒孔家店)。…
…これに対して,中国の革命勢力からの批判も出てきた。1919年の李大釗(りたいしよう)の論文〈大亜細亜主義与新亜細亜主義〉や,24年の孫文の神戸での〈大アジア主義〉と題する講演中の〈日本は世界文化に対して西方の覇道の番犬となるか,はたまた,東方王道の干城となると欲するか〉の一言などがそれである。アジア主義【橋川 文三】。…
…
[創立期(1919年5月~23年5月)]
ロシア革命の思想的影響と五・四運動の体験を通じて,中国の急進的知識人のあいだにマルクス主義への関心が高まり,1920年春以降,コミンテルンの働きかけと支援を受けて結党の準備が進んだ。陳独秀,李大釗(りたいしよう)がその中心となり,8月,上海で臨時中央(発起組)を発足させ,同時に外郭の半公然組織として社会主義青年団を結成して進歩的青年の結集につとめた。つづいて北京,武漢,長沙,広州,済南,東京(日本)にも支部(小組)が組織され,在ヨーロッパの留学生のなかからも運動が起こった。…
…中国共産党創立者の一人。江西省吉水県の地主郷紳の家に生まれ,北京大学在学中五・四運動のリーダーとして活躍し,李大釗(りたいしよう),陳独秀との接触を通じてマルクス主義に共鳴し,1920年9月,李大釗らと北京に共産主義グループを結成,中共党創立大会に北京代表として参加した。22年1月モスクワで開かれた極東諸民族(または勤労者)大会に出席してレーニンと会った。…
…1912年,北京大学と改称したが,当時はまだ官吏養成機関としての性格が強かった。17年,蔡元培が学長に就任して,陳独秀を文科科長に据え,李大釗(りたいしよう),魯迅などを招聘し,アカデミックな大学に改革して以来,名実ともに学問の殿堂としての陣容を整えた。19年の五・四運動の先頭に立ったのは北京大学の学生であった。…
…しかし,若干の大都市にプロレタリアートが発生したとはいえ,封建的生産関係がなお大勢を占める前近代的な農業国において,プロレタリア革命が果たして実現可能かという問題はたんに論難者の根拠となったばかりでなく,中国のマルクス主義者を悩ませた問題でもあった。 初期中国共産党の理論的指導者,李大釗(りたいしよう)は,〈中国の今日は世界経済のうえでは世界のプロレタリア階級にならんとする地位に立っている〉(〈経済から中国近代思想変動の原因を解釈する〉――《新青年》第7巻第2号)と述べ,〈プロレタリア民族〉という観点からこの問題を解決しようとした。さらにフランスに留学していた蔡和森は,レーニンの帝国主義論をより直截に導入して,中国革命が帝国主義の世界支配と直接対峙する性質を有することを明らかにした(〈マルクス学説と中国プロレタリアート〉――《新青年》第9巻第4号)。…
※「李大釗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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