1927年、広州(こうしゅう/コワンチョウ)(広東(カントン))から武漢(ぶかん/ウーハン)に移った中華民国国民政府のこと。1926年7月、国民党は蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)を国民革命軍総司令に任命し、北伐戦争を開始し、革命軍は数か月後には長江(ちょうこう/チャンチヤン)(揚子江(ようすこう/ヤンツーチヤン))沿岸に進出した。こうして北伐戦争のいっそうの発展のため、政府所在地を広州から、より中心地に近い所へ移す必要が生じた。国民党左派と共産党は、蒋介石の南昌(なんしょう/ナンチャン)遷都説に反対し、27年2月武漢への遷都を強行し、国民革命の主導権をとろうとした。蒋介石はこの情勢に対抗すべく4月12日、上海(シャンハイ)で反共クーデター(四・一二クーデター)を決行し、そのあとすぐ4月18日に南京(ナンキン)に国民政府を樹立した。こうして南京、武漢両政府対立という険悪な情勢となった。しかし、いわゆる国民党左派首脳部は蒋の経済的圧迫と列強の圧力のもとで動揺を深めた。とくに土地革命問題をめぐり共産党との対立が深刻化した。武漢政府はボロディン以下のソ連人顧問を解任し、7月には政府首班の汪精衛(おうせいえい)(汪兆銘(おうちょうめい/ワンチャオミン))が共産党との関係を断絶し、反共の立場を明らかにした。9月、南京(ナンキン)、武漢、西山(国民党右派の一派)の3派による国民党臨時中央委員会が開かれ、両政府の合流、そして南京を国民政府の所在地とすることが決定し、武漢政府は消滅した。
[山下龍三]
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1927年,広州から武漢に移転した国民政府。北伐の過程で,政府の位置を武漢にするか,南昌にするかの点で国民政府内に意見の相違があった。汪兆銘(おうちょうめい)を主とする国民党左派および中国共産党は,蒋介石(しょうかいせき)の反対を押し切って,27年1月,武漢に政府を移した。これに対応して蒋介石は南京に政府をつくり,ここに両政府が対立する。しかしその後,武漢政府内における国民党左派と共産党との対立が激化し,7月には共産党は政府から締め出され,残った国民党左派を主とする政府も,9月には南京国民政府と合体し,武漢政府は消滅した。
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…このとき革命の簒奪者袁世凱に深く接近して袁世凱と孫文との提携を策した行動がしばしば問題視されるが,国民党内では孫文直系の位置にあり,第二革命挫折後一時フランス遊学を余儀なくされた。孫文亡き後も左派を代表する指導者として,蔣介石による国共合作の破壊後,これと対立する武漢政府の主席に迎えられた。しかし結局は右派と妥協して統一政府の首脳に加わり,以後反蔣運動や下野亡命を繰り返しながらも行政院長,外交部長,党副総裁などの要職を歴任した。…
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