讃良郡(読み)さららぐん

日本歴史地名大系 「讃良郡」の解説

讃良郡
さららぐん

和名抄」にみえ、訓は高山寺本に「サヽラ」、東急本に「佐良々」、「拾芥抄」に「サラヽ」とある。本来「サララ」が正しいが(後述)、「ササラ」が一般的になったようである。近代の郡名の訓は「ササラ」(内務省地理局編纂「地名索引」)。北は交野かたの郡、西は茨田まんだ郡、南は河内郡に接し、東は生駒山地で大和国と境する。古代・中世では西方の茨田郡との間に河内湖の名残である深野ふこの池などの湖沼・湿地が介在し、人の生活しうる陸地はかなり限られていたと思われる。干拓や埋立は近世に進行した。現在では、郡域は四條畷しじようなわて市の全域と寝屋川市の南東部、および大東だいとう市の大部分にあたる。古代―近世の主要交通路は、長岡京・平安京時代の南海道と推測される東高野街道が生駒山地西麓を走り、清滝きよたき街道が東西に通じて大和と結ばれる。

〔古代〕

日本書紀」欽明天皇二三年七月条に、新羅の使者が日本に土着したことを記し、「今、河内国更荒郡うの邑の新羅人の先なり」とみえ、持統天皇八年(六九四)六月条にも「河内国更荒郡、白き山鶏を献ず」とあるから、古くは「更荒」と表記したらしい。ただし「日本書紀」持統天皇八年条の「更荒郡」の郡は追記で、原史料には「更荒評」とあったと思われる。平城宮出土木簡に、

<資料は省略されています>

とあるのが、現在のところ「讃良郡」の初見である。しかし「日本書紀」持統前紀に、持統天皇の名は「野讃良皇女」であるとみえるから、「讃良」の字も「日本書紀」奏上の養老四年(七二〇)以前に用いられていたことが知られる。その後「続日本後紀」承和八年(八四一)八月四日条、「文徳実録」斉衡二年(八五五)七月戊寅条や、「延喜式」神名帳・民部省・主水司の諸条にも「讃良郡」と書かれるが、一方、天平一九年(七四七)法隆寺伽藍縁起并流記資財帳には「更浦郡」、宝亀一一年(七八〇)西大寺資財流記帳に「更占郡」、「日本霊異記」中巻四一話に「河内国更荒郡馬甘里」とあり、更荒・更浦・更占の字も並行して使用された。上記のほか、平城宮出土木簡に「〈表〉更浦氷所□」「〈裏〉養老□」、「江家次第」巻一、元日宴会の条に「河内国更占」とあるなど、用例は多い。読みは、「日本書紀」天智天皇七年(六六八)二月条の注に、野讃良皇女のことを「娑羅羅皇女」と記し、また同書天武天皇一二年(六八三)一〇月条に「娑羅羅馬飼造」の名がみえるから、「サララ」と読むべきである。「新撰姓氏録」(河内国諸蕃)に「佐良々連」があるのも傍証となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報