日本歴史地名大系 「讃良郡」の解説
讃良郡
さららぐん
- 大阪府:河内国
- 讃良郡
「和名抄」にみえ、訓は高山寺本に「サヽラ」、東急本に「佐良々」、「拾芥抄」に「サラヽ」とある。本来「サララ」が正しいが(後述)、「ササラ」が一般的になったようである。近代の郡名の訓は「ササラ」(内務省地理局編纂「地名索引」)。北は
〔古代〕
「日本書紀」欽明天皇二三年七月条に、新羅の使者が日本に土着したことを記し、「今、河内国更荒郡
とあるのが、現在のところ「讃良郡」の初見である。しかし「日本書紀」持統前紀に、持統天皇の名は「野讃良皇女」であるとみえるから、「讃良」の字も「日本書紀」奏上の養老四年(七二〇)以前に用いられていたことが知られる。その後「続日本後紀」承和八年(八四一)八月四日条、「文徳実録」斉衡二年(八五五)七月戊寅条や、「延喜式」神名帳・民部省・主水司の諸条にも「讃良郡」と書かれるが、一方、天平一九年(七四七)の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳には「更浦郡」、宝亀一一年(七八〇)の西大寺資財流記帳に「更占郡」、「日本霊異記」中巻四一話に「河内国更荒郡馬甘里」とあり、更荒・更浦・更占の字も並行して使用された。上記のほか、平城宮出土木簡に「〈表〉更浦氷所□」「〈裏〉養老□」、「江家次第」巻一、元日宴会の条に「河内国更占」とあるなど、用例は多い。読みは、「日本書紀」天智天皇七年(六六八)二月条の注に、野讃良皇女のことを「娑羅羅皇女」と記し、また同書天武天皇一二年(六八三)一〇月条に「娑羅羅馬飼造」の名がみえるから、「サララ」と読むべきである。「新撰姓氏録」(河内国諸蕃)に「佐良々連」があるのも傍証となる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報