豊村(読み)とよむら

日本歴史地名大系 「豊村」の解説

豊村
とよむら

[現在地名]上対馬町豊

対馬島の北端いずみ村とわに浦の間に位置し、船泊りの良い入江に恵まれる。北の沖に三ッ島(北ノ手島・高ノ島・大島)があり、この東のから崎を回る船は「よき風潮たりとも、帆を下ろし、櫓を動かして」通航すべき難所であった(津島紀事)府中ふちゆう(現厳原町)から海路二三里一八町という(同書)。豊は中世からみえる地名で、豊崎とよさき郡または豊崎郷という広域地名にかかわるが、神功皇后が矛・剣を当地に納め国の豊かになることを願ったという所伝がある(同書)。九州北東部に豊国(のちの豊前・豊後)および本州西端の長門国に豊浦とよら郡があるのは海上交通、また神功皇后の祭祀という共通の伝説などからみて、本来同じ神、つまり豊姫を祀る親縁関係があったという想定も可能である(神功皇后とするのはのちの付会)。浦崎の岬神向かみむこう崎には弥生時代から古墳時代に及ぶ墳墓(石棺群)があり、出土物には瀬戸内山陰と関係したもの、また朝鮮半島から渡来した伽耶系の土器などがみられ、これらの海域を舞台にした交易がうかがえる。

豊村
とよむら

中世、豊崎とよさき郡にあった郷村。永享一一年(一四三九)二月日の宗盛国書下(洲河家文書)に豊とみえ、「といさき」の洲河彦五郎に対して、「とよさきせと」を上下する船や浦々で商いをする船から船別に一連の銭をとり、当地に鎮座する「しまのかうへ」(島首神社)の神楽の費用に充てるよう命じている。明応九年(一五〇〇)二月三〇日の宗盛永請取状(豊崎郷給人等判物写)に「とよむら洲河掃部助」とみえ、筑前国から対馬に連れてきた下人受取りに関与したようである。


とよばみむら

[現在地名]那珂町豊喰

那珂川の北方に位置し、東は後台ごだい村・福田ふくだ村。康安二年(一三六二)正月七日の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)に「鳥喰」と記され、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(同館蔵)には「とりはミ」とある。豊喰新田村地誌調書(那珂町役場蔵)には「古鳥喰村ト称ス、明和元年豊喰村ト改称シ、天保十三年十一月今名豊喰新田ト改ム」とある。天保郷帳に「豊喰村」とみえ、「古者鳥喰村、鳥喰新田村二ケ村」と注記され、元禄郷帳の「鳥喰新田村」の項には「鳥喰村枝郷」と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の豊村の言及

【売木[村]】より

…北部を国道418号線が横断する。1948年豊村が売木・和合の2村に分離した。ほぼ全域が山林・原野で占められ,耕地は河川沿いにわずかに点在する。…

※「豊村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」