貝田村(読み)かいだむら

日本歴史地名大系 「貝田村」の解説

貝田村
かいだむら

[現在地名]国見町貝田

ほとんどが山地で、北部山地より流れる風呂沢ふろさわ川が南部に扇状地をつくる。北部仙台藩領に向かっての地狭部を奥州道中が通る。東は光明寺こうみようじ村、西は西大窪にしおおくぼ村、南は東大窪村。村名は狭い土地に水田を作ったことに由来し、貝は狭の意味という(明治一四年「貝田村誌」国見町史)。天文七年(一五三八)の段銭古帳に伊達西根だてにしねのうちとして「かい田」とみえ、段銭は二貫七三〇文。同二二年の晴宗公采地下賜録では、阿部弥四郎が貝田のうち「しつの在家」「いしハら在家」を、舟生式部丞が孫左衛門屋敷・寺屋敷などを、大塚将監が「しつの在家」を安堵されている。「伊達天正日記」のうち天正一七年(一五八九)四月一七日の野臥日記に「かいだの内きりが窪」とあり、在地の住人とみられる彦六・後藤九郎ゑもんの名がみえる。


貝田村
かいだむら

[現在地名]江府町貝田

南西流して日野川に合流する小江尾こえび川の中流域に位置し、南は船谷ふねだに川を隔てて宮市みやいち村。江尾えび村から小江尾川沿いを遡上し、大山道のうちの横手よこて道に接続する道が通る。拝領高は一六五石余、本免は五ツ六分。元禄郷帳による高二二三石余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三〇七石余、竈数四一。「伯耆志」では林九町八反余、家数四二・人数二一二、産物柄杓


貝田村
かいだむら

[現在地名]富来町貝田

富来川下流右岸の村で、村域南東部は左岸におよび、左岸に流入する広地ひろじ川の合流地に南北朝期の南朝方の拠点木尾嶽きおだけ城跡がある。天文一〇年(一五四一)四月の諸職料田支配状(気多大宮司家文書)によると、気多社公文職支配の毎年役に「かい田むら」が一貫文を納入している。正保郷帳の高五五二石余、田二六町一反余・畑一〇町六反余、免三ツ二歩四厘。


貝田村
かいたむら

[現在地名]篠山市貝田

栃梨とちなし村の東にあり、籾井もみい川が流れる。垣田とも記す。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「貝田村」とみえ、高一九八石。正保郷帳では垣田村として、田高一七七石余・畠高二〇石余。「丹波志」では草上くさのかみ(村雲庄)のうちで、高一五七石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では向井組で、家数二三・人数九〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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