貫高制
かんだかせい
中世後期、戦国大名の権力構造を貫高のもつ特性との関連で考える際の概念として用いられる。内容的には種々の展開をみるが、大別すれば、(1)年貢収取との関連説、(2)分業流通との関連説、(3)室町幕府段銭(たんせん)との関連説に分けることができる。(1)は、年貢の貫高表示の慣例化や、貫高が年貢あるいは軍役高の基準となっていたことに注目しつつ、それが戦国大名の家臣団(領主層)に対する知行(ちぎょう)制の深化と百姓の年貢負担の定量化をもたらす役割をもったとする。(2)は、分業流通への視点を基礎とし、戦国大名が領国内の貨幣・分業流通政策といった経済的統制のなかで、家臣団(領主層)、名主層への経済的支配を強化しつつ貫文(貫高)を基軸とする知行制・軍事力編成が完成していくとする。(3)は、戦国大名の掌握した貫高は領国内賦課の統一基準であり、それは戦国大名が室町幕府守護体制による段銭賦課権を掌握したことにより、これを根拠に上から強行的に統一設定されていくという点を強調し、貫高制は、戦国大名が百姓層への年貢などの収取と、家臣団(領主層)への軍役賦課を統一的に実現するために設定したものとした。
以上の諸説は相互に絡み合っており、一様ではなく、また地域的偏差の問題あるいは近世石高制との関連など、残されている課題も多い。
[久保田昌希]
『藤木久志著『戦国社会史論』(1974・東京大学出版会)』
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貫高制
かんだかせい
中世後期,武士の所領に課した軍役などの役の基準を貫高(銭高)で表示した制度。起源は不明だが,13世紀後半,北条氏の所領に貫高表示の所領が出現した。建武政権のもとで地頭の所領からの所出を貫高で把握し,その20分の1の税を徴収することが定められた。さらに室町幕府は,地頭の所領高を貫高で把握し,その50分の1を地頭・御家人役として課した。この所領高としての貫高は,その所領からの年貢・公事(くじ)・夫役(ぶやく)などの得分を銭で換算したもので,銭納にもとづく年貢高ではない。戦国大名は,この軍役高としての貫高制を採用するとともに,検地などにより郷村の年貢高を貫高で把握し,軍役高と年貢高の両者を統一した貫高制を確立しようとするが,後北条氏を除き体制としては完成しなかった。太閤検地により,この郷村高と知行役高を統一し,米で換算した役の基準体制として完成したのが石高(こくだか)制である。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の貫高制の言及
【戦国大名】より
…そして,かつての地頭などの系譜をひく在地領主や豪族などで,大名が成長するなかで政治的軍事的に服属した家臣を外様・[国衆]と位置づけ,大名家の家中という擬制的な家のなかにとりこんでいった。国衆はなお独立的地位をたもち,戦闘にも自己の軍団をひきいて出陣したが,大名はこれらの家臣団の知行地の収益を[貫高]で統一的に把握し,それにみあった兵員・武具などを課する貫高制をしき,定量的軍役体系を完成させた。これら在地領主層の多くがすでに城下町に居を構えていたことは,朝倉氏の一乗谷,六角氏の観音寺城下などの遺構から知られ,この階層においてはすでに兵農分離が進展していたことがわかる。…
【太閤検地】より
…農村部に比して,町場など交通・商品流通の盛んな地域の石盛が高くなるような例もみられる。石高制は,分業関係を内包した社会的総生産力を量的に把握するもので,この点,同じく高に結ぶといっても,軍役基準や年貢量を表示するにすぎない貫高制と大きく異なっている。 検地の施行とともに[太閤蔵入地]が設定された。…
※「貫高制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」