室町・戦国時代に用いられた所領規模の表示方式。とくに戦国大名が知行宛行(あておこない)の際に広く用いたもので,年貢量とともに軍役量の基準をあらわす数値であった。貫高の起源はかならずしも明らかでないが,14~15世紀を通じて発展した年貢の代銭納と,将軍-守護および守護-国人間の知行宛行,軍役収取の必要から徐々に形成されたと考えられる。この時期には荘園や公領を何貫文の地と表現したり,守護大名を何千貫衆,何万貫衆などと呼びならわすことも広まっている。
戦国時代の大名領国制における貫高も,このような室町期の貫高を継承する中で展開したが,諸領国間で統一的な方式があったわけではない。貫高がもっとも整備された後北条氏の領国では,田地1反=500文,畠地1反=165文を標準的な年貢高として,これに面積を掛けることによって所領の貫高を算定した。農民から現実に収取する年貢高は,この貫高から,若干の免を差し引いたものであり,給人の軍役もこの貫高から別に一定の免高を差し引いた知行役高に対して賦課された。さらに大名が直轄地・給地をふくめ,全領一律にとる段銭(たんせん)も田地貫高を基準として賦課された。その際,農民が負担する現実の年貢の形態はかならずしも銭であったわけではなく,海岸地帯などでは海産物を,所定の換算値に従って,貫高に見合うだけ納めさせている。甲斐の武田領では,荘園制下の雑公事(くじ)に似た雑多な物資を貫高換算で納めさせており,また駿河の今川領では,銭地・米地といった形で,貫高年貢を米・銭両建てで収納していた。後北条領でも,年貢・段銭を銭だけで取ることは困難が多かったため,貫高100文を米1斗4升~1斗2升,麦3斗5升ほどで換算する〈納法〉を定めていた。他方軍役も,後北条氏の家臣で284貫400文の軍役高をもつ宮城四郎兵衛尉の軍役は,騎馬の本人のほか大小旗持3,指物持1,歩弓侍1,歩鉄砲侍2,歩鑓(やり)侍17,騎馬7,歩兵4計36名であった。厳密に一律とはいえないが,軍役の量・内容も,このような形で,貫高に応じて確定されたのである。
以上のように,貫高は戦国大名が農民支配と家臣に対する軍役収取とを同時的に実現するための基準数値であったが,この制度が確実に行われるためには,検地等を通じて,大名の土地把握が徹底していなければならない。ところが,戦国大名の権力は,新たに服属させた国人領主級の家臣の所領の内部に立ち入って,厳密な検地を実施し,多量の増分を打ち出すほどに強大ではなかった。そのため,検地を全領国にわたって平均的に実施することはとうていできず,なお自立性の強い有力家臣に対しては,ごく内輪の見積りで貫高をつけることしかできない場合が多かった。戦国諸大名間における貫高制の偏差は,主としてこのような,大名と家臣とのあいだの力関係の差異による土地把握の徹底度のちがいにもとづくものといえる。
→永高 →石高制
執筆者:永原 慶二
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土地・地代などを銭貨の単位である貫文(かんもん)によって表示する中世社会特有の方法。江戸時代の農政書であり1794年(寛政6)に成立した『地方凡例録(じかたはんれいろく)』には、鎌倉期文永(ぶんえい)のころ(13世紀後半)より貫高が現れ、室町期には東国・西国ともに貫高になったと記されている。貫高成立の背景には、貨幣流通の拡大とともに、土地からの年貢収取を代銭納(だいせんのう)によって行っていくという、13世紀後半から14世紀前半ごろの領主諸層による対応という状況があり、貫高により田畑1枚ごとの年貢高が表示され始めていった。もちろんこれによってすべてが代銭納になったわけではないが、しだいにその標準的共通単位が示されていった。この過程の究明は、各地域・荘園(しょうえん)ごとにみられる枡(ます)の不統一や、米と貫高の換算率の問題として残されている。前述の標準的共通単位について、戦国期の場合では西国の厳島(いつくしま)社領に1反=500文という標準がみられ、東国の後北条(ごほうじょう)氏領国においても同様の傾向が指摘できる。また貫高は、年貢高表示にとどまらず、戦国大名による村落や家臣団(領主層)の所領高などを把握する際の基準として機能していった。のち豊臣(とよとみ)秀吉の全国平定により石高制が成立するが、なお東国では永楽銭(えいらくせん)の価値を基準に年貢高を算定・換算する貫高として永高(えいだか)表示が残った場合もみられ、近世においても幕府による永高や、米1石を銭1貫文の換算基準とした西国における毛利(もうり)氏の「石貫銭(こくかんせん)」の採用など、貫高が与えた影響は大きい。
[久保田昌希]
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…永積,永盛,永別などの呼称もある。年貢銭納は鎌倉末期に始まり,領主が知行地を分銭何貫文の地と表示する貫高制が成立したが,永楽銭の通用がひろまるにつれて東国ではそれが諸種の銭貨の中で基準たる地位をしめるにいたり,後北条氏が年貢銭納を永楽銭に限定し,永楽銭による分銭高を永高と称し,その慣習がひろく関東一円にひろまった。後北条氏の場合は永高と従来の貫高との比率を1対2としたが,地域によって一様ではない。…
…土地の標準収穫量である石高を基準にして組み立てられた近世封建社会の体制原理をいう。
[貫高制との相違]
戦国大名も貫高制に基づいた検地を行い,軍役基準を定めたが,土地面積に応じた年貢賦課が原則で,どれだけの収穫量があるかについては無関心であった。田畠をそれぞれ上中下に分け,それに応じて年貢額が算出される例もあるが,たとえば後北条氏の場合のように,田1反=500文,畠1反=165文と,年貢額は固定されていた。…
… 土地制度は文禄,慶長,元和の諸検地を経て寛永総検地で確立した。藩政期を通じて石高制ではなく貫高制をとったが,文禄検地で貫高80文につき米1石納と定め,寛永検地で貫高100文につき米1石納に改め,税制,村落制度,知行制の基礎を確定した。52年(承応1)には貨幣納・米納の二本立てを廃し,田方は原則として米納に改めた。…
※「貫高」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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