賢順(読み)けんじゅん

改訂新版 世界大百科事典 「賢順」の意味・わかりやすい解説

賢順 (けんじゅん)
生没年:1534-1623(天文3-元和9)

筑紫箏(つくしごと)の箏曲始祖。宮部日向守武成の子。7歳で久留米の善導寺に入り僧となる。明人鄭家定に七弦琴などを学び,善導寺に伝わる寺院雅楽筑紫楽)および寺院歌謡を整理して,箏伴奏の歌曲を編集。これが筑紫箏・筑紫流箏曲と呼ばれ,北九州および江戸の佐賀藩人などに伝承されるとともに,門下の法水を経て八橋検校以降の箏曲を生むもととなった。のちに還俗して諸田蔵人賢順斎と号し,豊前大友義鎮に仕えたが,不和となって肥前南里正定寺に逃れ,多久の竜造寺安順に招かれ,その夫人千鶴子などに箏を教えた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「賢順」の意味・わかりやすい解説

賢順
けんじゅん

[生]天文3(1534).福岡
[没]元和9(1623).佐賀
江戸時代前期の箏曲家。近世箏曲源流である筑紫箏の大成者。還俗後の名は諸田蔵人賢順斎。善導寺の僧侶であったが,明人鄭家定について琴を学び,善導寺に伝わる雅楽または越天楽 (えてんらく) 今様の類の寺院歌謡の箏譜を整理して箏伴奏の歌曲を編集した。この歌曲がのちに筑紫箏または筑紫流箏曲と呼ばれて,佐賀藩を中心に職業的演奏家によらない同好者の音楽として行われた。門下の玄恕 (げんじょ) は,慶長年間京都に上って中央に筑紫箏を紹介,法水は江戸に下って八橋検校に伝え,八橋はこれを今日に及ぶ箏曲に改革した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「賢順」の解説

賢順 けんじゅん

1534?-1623? 織豊-江戸時代前期の箏曲(そうきょく)家。
天文(てんぶん)3年?生まれ。筑紫箏(つくしごと)の創始者。筑後(ちくご)(福岡県)久留米(くるめ)の善導寺の僧となり,明(みん)(中国)から渡来した鄭(てい)家定に七弦琴などをまなぶ。寺につたわる雅楽や歌謡の箏譜を整理し,筑紫流箏曲をおこす。のち還俗(げんぞく)して諸田蔵人(もろた-くろうど)と称し,大友家,竜造寺家などで教授した。門人に玄恕(げんじょ),法水など。元和(げんな)9年7月13日?死去。90歳?

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世界大百科事典(旧版)内の賢順の言及

【顕智】より

…幼時に富士山の天池の辺で見つけられたという奇譚を伝えるが,出自などは明らかでない。比叡山の東塔で覚賢に師事し,賢順と称した。そののち浄土真宗の祖親鸞が東国にいたころ,その弟子で下野高田の専修寺の真仏について浄土の義を習い,また親鸞からも面授を受けて顕智と改め,師が帰洛したのちも上洛して徳化に浴し,奥州などにも教化したという。…

【箏曲】より

…狭義には,雅楽の箏に対して,近世以降の箏伴奏の歌曲と,それに付随する器楽曲をいい,最も狭義には,盲人音楽家を伝承・教習の中心として普及し,地歌と関連して発展してきた芸術的な室内音楽をいう。
[歴史と分類]
 寺院芸能の一つとして行われていた〈越天楽歌物(えてんらくうたいもの)〉の類の歌曲を,組歌形式の箏伴奏のものに編集したのは,筑紫善導寺の僧の賢順であった。以後,この歌曲を,〈筑紫箏(つくしごと)〉ないし〈筑紫流箏曲〉といった。…

【筑紫箏】より

…邦楽の種目,楽器名称。天文(1532‐55)ころ,筑紫善導寺の僧賢順が,それまで寺院歌謡として伝承されてきた箏伴奏の歌曲を,組歌形式に編集した箏曲をいうが,以来,箏曲に用いられる箏を雅楽の箏と区別して筑紫箏ともいい,また,近世箏曲全体の総称として,筑紫箏ということもある。狭義には,盲人音楽家に伝承された普通の箏曲を除外する。…

※「賢順」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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