1441年(嘉吉1)6月24日赤松満祐(あかまつみつすけ)が将軍足利義教(あしかがよしのり)を京都西洞院二条の自邸に招き、猿楽(さるがく)の宴中に殺害して下国し、幕府討伐軍に攻められて9月10日播磨(はりま)国守護所越部城(木)山(こしべきのやま)城(兵庫県たつの市)に自害し、赤松氏惣領(そうりょう)家が滅んだ事件をいう。満祐は1427年(応永34)父義則(よしのり)の没後その跡職を継いだが、その際将軍義持(よしもち)に播磨国を没収されかけたことがあり、またその後中央政界において高い政治的地位を占めるが、義教が赤松氏庶子家の満政(みつまさ)・貞村(さだむら)らを厚遇したためにしだいに疎んじられた。義教は39年(永享11)関東管領(かんれい)足利持氏(もちうじ)を討ち(永享(えいきょう)の乱)、また翌年一色義貫(いっしきよしつら)、土岐持頼(ときもちより)を殺害してその領国を没収するなど強権を振るい、満祐の弟義雅(よしまさ)の所領も没収した。義教弑逆(しいぎゃく)はこのように緊迫した状況のなかで起こった。満祐はただちに一族家臣らを率いて播磨に下り、加東郡の安国寺(加東(かとう)市)において義教の葬儀を挙行し、供養(くよう)を行った。一方幕府はやっと7月初めに赤松氏討伐を決定し、8月初めには赤松氏治罰の綸旨(りんじ)が下された。討伐軍の進攻は順調ではなかったが、細川持常(ほそかわもちつね)を大将とする大手の軍勢は8月下旬の明石(あかし)人丸塚の合戦に赤松勢を打ち破り、また但馬(たじま)口からは山名持豊(やまなもちとよ)の軍勢が攻め込んで赤松勢を書写山麓(しょしゃさんろく)の坂本城(姫路市)まで退却させた。赤松勢は坂本城の攻防戦にも敗れて越部城(木)山城に撤退したが、山名氏の軍勢に包囲され、9月10日には満祐らが自害し果てた。なお、嫡子教康(のりやす)は妻の実家である伊勢(いせ)国司北畠(きたばたけ)氏を頼ったが殺害され、また弟義雅の遺児は義雅の妻三条氏の縁で養育された。乱後の処置として、播磨守護職は山名持豊、備前(びぜん)は同教之(のりゆき)、美作(みまさか)は同教清(のりきよ)に与えられた。守護職の獲得は守護請の国衙(こくが)領や荘園(しょうえん)の代官職を得ることでもあり、その経済的収益も大きかった。また赤松氏関係の没収地は山名氏領国の但馬、備後(びんご)の領主層に給与されたりしているが、そのまま本領に居住する赤松氏旧臣もあった。これ以後幕府の権勢は失墜していき、幕政は有力大名、とくに細川氏、山名・大内氏を両輪にして展開するようになる。
[岸田裕之]
1441年(嘉吉1)赤松満祐が,専制化を強めていた6代将軍足利義教を自邸で殺し,みずからも播磨で敗死した事件。義教将軍就位期は,武力対決を辞さない構えをみせた鎌倉公方足利持氏との対立だけでなく,1428年(正長1)8月には持氏の動きと連動しつつ伊勢国司北畠満雅が,南朝後亀山天皇の皇子小倉宮聖承を奉じて挙兵,さらに10月には,天皇,将軍の代替り徳政を要求し,近江や山城以下の土民が蜂起した(正長(しようちよう)の土一揆)。このような情勢から義教の施政は,就位早々に起こった権力の動揺を克服する方向で進められ,直属軍事力である奉公衆体制も整備された。有力守護の抑圧策として官制上の管領権限に制限が加えられ,代わって直属官僚としての奉行人体制が整備された。幕政・裁判機構上からも奉行人層の地位は高まった。義教専制化の基礎は直轄軍と直属官僚にあったといえよう。義教は39年(永享11)長年の対抗者であった鎌倉公方持氏を滅ぼし(永享の乱),遺子安王・春王も両者を擁した結城氏朝とともに滅ぼした(結城合戦)。守護大名に対しては家督に介入して圧力を加え,若狭・三河・丹後守護一色義貫や伊勢守護土岐持頼などはさしたる理由もなく追討された。赤松惣領家満祐は播磨・美作・備前の3ヵ国守護職を持っていたが,37年うち2ヵ国が一族貞村に与えられるとの風評が立ち,40年には弟義雅の所領すべてが没収され,一部は貞村に与えられた。身の危険を感じた満祐は先手を打ち,41年6月14日関東平定の祝賀と称して義教を自邸に招いて殺し,自邸に火を放って本国播磨に下った。一時動揺した幕府中枢も,細川・山名氏らを中心に追討軍を編成した。赤松氏自身の軍事力はさほど強固なものではなかったため,その年9月満祐に従った一族は播磨城(木)山城で自刃し惣領家は滅びた。この乱を契機として幕府権力もしだいに山城の地域政権化の方向をたどったのである。
執筆者:田沼 睦
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1441年(嘉吉元)有力守護赤松満祐(みつすけ)が将軍足利義教(よしのり)を暗殺し,播磨国で幕府の追討軍に討たれた事件。赤松氏は幕初以来の重臣で播磨・備前・美作各国の守護職を兼ねたが,1427年(応永34)将軍足利義持は満祐から3カ国の守護職を奪い討伐をはかった。しかし守護勢力の反対もあり断念。次の将軍義教は,政治力の強化を企て守護家の家督への干渉や反抗的大名の追討などによって守護大名抑圧策を強行。こうしたなか義教が満祐から播磨・美作両国を没収し,寵臣である赤松庶流の貞村に与えるとのうわさが広がった。憤りと不安にかられた満祐は41年6月,結城合戦勝利の祝宴と偽って義教を自邸に招いて殺し,本国播磨に拠り幕府に反抗したが,同年9月,追討され敗死。赤松氏は没落し,領国は山名氏に帰した。事件は義教の守護抑圧策の行き詰りが招いたもので,かえって将軍権威の失墜をもたらした。
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…ここに赤松惣領家は断絶し領国は山名一族に与えられた。嘉吉の乱【鳥居 和之】
[伝承と作品化]
赤松満祐の将軍足利義教弑逆事件は,その後もながく語り伝えられ,これを素材とする文芸作品も二,三にとどまらないが,なかでもとくに名高いのは1705年(宝永2)初演とみられる近松門左衛門作の浄瑠璃《雪女五枚羽子板(ゆきおんなごまいはごいた)》で,いちはやく近松の時代物の三傑作の一つに数えられている。作中,満祐は〈赤沼入道〉,満祐の子教康は〈赤沼判官〉と名づけられており,ひたすらに極悪非道の父子として描かれている。…
…40年には,1402年(応永9)に寺納年貢1000石で守護請した高野山領備後大田荘の年々の未進累積額が2万0600石余に達したことを理由に,代官犬橋氏を改替するよう高野山側から訴えられている。嘉吉の乱では,赤松満祐が将軍義教を弑逆(しいぎやく)して播磨に帰国すると,討伐軍の主力となって但馬口から攻め込み,城(木)山城を攻略して滅亡させる。乱後に播磨守護職を与えられ,備前,美作も一族の教之,教清が得た。…
※「嘉吉の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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