中世後期の村落における上層身分の俗称の一つ。地士とも表記される。研究史上では,土豪・上層名主(みようしゆ)・小領主・中世地主などともいわれ,とくに一揆の時代といわれる戦国期の社会変動を推進した階層として注目される。中世社会の基本身分は侍・凡下(ぼんげ)・下人(げにん)の三つから成っていたが,中世後期の村落でも〈当郷にこれある侍・凡下共に〉〈当郷において侍・凡下をえらばず〉(〈武州文書〉)というように,侍と凡下は一貫してその基本的な構成部分であった。地侍はこの村の侍の俗称であり,凡下の上に位置していた。侍はふつう百姓とは別のもの,武士の同義語と考えられがちであるが,〈人夫のことは百姓役なり,百姓の儀においては侍・凡下をいわず,その地につきての役所なり〉(1473年,《大乗院寺社雑事記》)とされたように,村落において領主の耕地をもつかぎり,侍も凡下もともに領主からは百姓とみなされた。
戦国農村の侍には,〈奉公人,物作らず〉(〈河毛文書〉)と〈主をももたず,田畠作らざる侍〉(〈平野荘郷記〉),〈奉公をも仕らず,田畠をもつくらざるもの〉(〈浅野家文書〉)というように,領主を主人にもち軍役をつとめる侍と,主人をもたず軍役をつとめない侍とがあり,村落のなかでは自分では田畠を作らず,とくに前者は夫役などの負担免除の特権を与えられている場合が多かった。一般百姓も〈中間(ちゆうげん)〉から〈かせ者〉へというようなコースで主もちの侍身分に取り立てられるのが名誉とみなされ,戦功の恩賞とされることがあった(〈児野文書〉)。
しかし戦国大名はやがて〈百姓等,武士へ奉公すべからず〉(1536年,〈安養寺文書〉)というように,武士と百姓(主なしの侍・凡下)の間を切り離そうとする政策をとるようになり,戦国末期には,大名に奉公し軍役をつとめる侍・凡下が軍役衆=兵であり,主なしの侍・凡下が百姓=農であるという新しい基準をもつ,いわゆる兵農分離の身分制度の形成される方向が現れてくる。この方向を制度として展開したのが豊臣政権で,〈侍・中間・小者・百姓〉などの奉公人が主人に無断でその関係を変更することは禁止され(1588年,〈浅野家文書〉),〈主をももたず,田畠作らざる侍共〉は農村から排除さるべきものとされた(1590年,〈平野荘郷記〉)。この政策は江戸幕府に受け継がれ,村には侍株・侍分など百姓と区別される家柄は残るが,中世的な侍の身分と主なしの地侍の存在は公の体制としては否定された。近世初期の村落にすむ主もちの侍は,〈侍・中間・小者・あらしこ〉などと一括して呼ばれたように,武士身分でも百姓身分でもなく,武士奉公人中の上位者(若党か)の呼称とされるにいたる。
執筆者:藤木 久志
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中世後期村落の有力名主(みょうしゅ)層をさす。惣村(そうそん)においては「オトナ」として村落共同体の中核をなしていたが、その一方で、名字をもち、「方(かた)」「殿(どの)」などの敬称を付され、荘園(しょうえん)の下級荘官となって支配機構の末端を担うなど、侍衆として一般の地下(じげ)百姓衆とは区別される存在であった。とくに戦国期に入ると、彼らは周辺小農民との間に地主経営による小作料の収取関係や、被官関係を展開し拡大していく。しかし、その動向は領主化への志向に一元化されるものではなく、権益を保持するため、地侍同士の横の連合を強めるとともに、共同体規制に依存して、その規制によって収奪を実現し村落内における基盤をますます固めるなど、在地との結合を深めるような面をもっていた。兵農分離を経て中世から近世に至る歴史的過程のさまざまな可能性は、このような地侍層の動向を探ることによって究明されるものと考えられる。
なお、軍記や記録などにみられる地侍は、幕府や守護・諸大名に属する武士に対して、在野の武士という意味で、国人(こくじん)領主の概念をも含むものである。
[伊藤敏子]
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地下侍・地士とも。中世,土着した下級武士。荘園制下の地主であるとともに,大名などと主従関係をもち侍身分を獲得した者。村落の指導者であるとともに戦国大名の軍事力の基盤をなした。豊臣政権の兵農分離政策で,近世村落の郷士となった者も少なくない。
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…平安・鎌倉時代に公家や武家男子の敬称(《入来文書》)や対称(〈北条重時家訓〉)として用いられるが,ひろく中世社会では,村落共同体の基本的な構成員たる住人,村人の最上層を占めて殿原,百姓の順に記され,村落を代表する階層として現れる。名字をもち,殿とか方などの敬称をつけて呼ばれ,〈殿原に仕〉える者をもち(《相良氏法度》),〈地下ノ侍〉(《本福寺由来記》)つまり侍身分の地侍として凡下(ぼんげ)身分と区別され,夫役(ぶやく)などの負担を免除されることもあった。後期の村落の名主(みようしゆ)・百姓のうちの名主上層に当たるとみられるが,〈殿原とも百姓として作仕る〉(〈法隆寺文書〉)といわれ,領主からは土地を耕作するかぎり百姓とみなされた。…
…中世末期の下剋上の戦乱のなかで,経済的には支配階級に属しながら被支配身分である地侍・名主(みようしゆ)百姓などが分解を遂げ,領主―農奴という近世封建社会の基本的階級関係が確定づけられていくが,支配身分としての武士と,被支配身分としての百姓・町人などが截然と区別され,武士が他のすべての者を支配し,その原則に基づいて秩序づけられる体制が形成されていく過程を指す。百姓はもちろん,武士も古くから存在していた。…
…寄子に先行する同じ性格をもつものとして,奈良時代の寄口(きこう),平安時代の寄人(よりうど)があるが,鎌倉時代の惣領制において,惣領が非血縁的武士を族的な関係の中に〈寄子〉として繰り入れ,その所当公事(しよとうくじ)などを庶子と同じく割り当て,負担させていたことが知られる。おそらく,それぞれの時代に,いろいろな階層に,弱小の者が有勢者に保護を求め,擬制的血縁集団の一員であることを保証された種々の形態の寄親・寄子的関係が存在したと考えられるが,室町時代に村落の中から有力農民が武士化する傾向が強まると,これら在郷の地侍はそれぞれの地域の有力武士と主従関係を結んだり,これを寄親と頼んで,寄子となることが一般化した。このような地侍を家臣団として組織化することが急務であった戦国大名は,在地に形成されていた寄親・寄子関係をそのまま承認するとともに,大名と直接主従関係をもつ地侍を有力武将に預けるというかたちで,新しい寄親・寄子関係を設定するなどして,これを家臣団編成方式として制度化していった。…
※「地侍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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