中世末期の下剋上の戦乱のなかで,経済的には支配階級に属しながら被支配身分である地侍・名主(みようしゆ)百姓などが分解を遂げ,領主-農奴という近世封建社会の基本的階級関係が確定づけられていくが,支配身分としての武士と,被支配身分としての百姓・町人などが截然と区別され,武士が他のすべての者を支配し,その原則に基づいて秩序づけられる体制が形成されていく過程を指す。百姓はもちろん,武士も古くから存在していた。武士は貴族など身分の高い人のそばに仕えて警護にあたり,鎌倉幕府の御家人として守護・地頭などに補任され,あるいは荘官などに登用されるような土豪的存在であるが,中世末には,彼らは広大な土地を所有し,自己の屋敷内に抱えた多くの下人を使役して農業経営を営む主体であった。地侍・名主百姓なども経営規模に差はあるものの,実体としてはこれと同じで,みずからも武装していた。
兵農分離による〈農〉の形成の基本コースは,中世社会において土豪・地侍・名主百姓のもとに従属し,事実上は家族を形成していながら,主人の意のままに売買,質入,譲渡される運命にあった下人・名子などが,主人から恩恵的に与えられ,あるいは内密に開墾した土地を耕作することによって,経済的自立の基礎を獲得していくところにある。このような土地は,一般に〈ほまち〉〈新開〉と呼ばれ,地質や水利条件は劣悪であったが,そこでの収穫物は自分のものとすることができ,生産意欲をかきたたせることになった。中世末期には鉄製の鍬・鎌が比較的安価に供給されるようになり,下人みずからの労働によって土地の深耕が可能となって,刈敷肥料の投入を容易にさせた。これによって生産力を発展させたことはいうまでもなく,小経営として安定的に確立する契機となったのである。土豪領主の行う大経営は多数の下人や牛馬を使役するが,そこで用いられる長床犂は深耕が不可能という欠陥を有していた。その点,深耕を可能にする鍬や,刈敷肥料の投入を容易にする鎌の使用は,地味を豊かにすることによって土地生産力を向上させ,田の裏作麦など二毛作や連作の条件をつくり出した。これは,小経営が大経営より有利な条件にあることを示しており,土豪的大経営の解体を促進させた。このようななかで土地との結びつきを強め,小経営として自立し,領主に対して年貢・夫役(ぶやく)を負担するようになった農民を,本百姓または高持百姓という。彼らは検地帳に登録され,田畑・屋敷を所持し,村落共同体の基本的構成員として用水・入会などに参加する権利をもっていた。
同じく,兵農分離による〈兵〉の形成は,上層の名主百姓が生産過程から遊離していくことを基本コースとしている。大経営が小経営よりも生産力的に劣っている以上,土豪層はみずから経営に携わるよりも,土地を小農民に分与して耕作させ,収穫物の一部を年貢として納入させる道を選ぶようになる。一部の者は大名などの家臣となって農村を離れ,城下町へ移住して専業武士団に編入された。そして,領主階級の末端にあって,農民その他の者を支配するための武力の一端を形成する。彼らはもはや農民を抑圧する立場に転化したのであるが,領主と農民の間には一元的な支配・被支配の関係が成立し,中間的な存在は消滅する。これは一職(いつしき)支配と呼ばれ,兵農分離の結果もたらされた近世的な社会体制を意味している。
農業生産から遊離した名主百姓のなかには,武士化せずに商人・職人となる者もあった。彼らは町場に居住する場合には町人身分となり,おりから成立しつつあった新たな分業関係に基づいて遠隔地商業に従事し,軍需品や生活必需品の製作にあたった。商人の場合,多くは領主の特別の保護をうけ,武具や奢侈品,地方の特産物など領主の需要を満たすものの供給に従事した。彼らは船など大規模な運輸手段を所有し,年貢米の換金を委託されるケースもあった。米穀市場をはじめ,鉄砲・玉薬・甲冑などの武具生産の技術や外国産の高級品は上方に集中していたので,上方市場と地方を結びつけることが彼らの役割であった。地域ごとの価格差が著しいことや,輸送手段を独占していることが,彼らにとって利潤抽出を容易にしたものと思われる。鍛冶・番匠・鋳物師など特殊技能をもつ職人集団は武具などの生産に従事し,築城・普請などに動員された。彼らは領主に対して役儀として技能を提供し,その見返りとして種々の特権が与えられ,独占的な営業を保証された。普請などに動員された際には飯米が与えられ,棟梁,肝煎(きもいり),平職人などの階層に応じて作料が給される場合もあった。商人・職人のなかには農村に居住し,日常的な生活必需品の生産や販売に従事する者もあった。彼らは他面では土地を保持して農耕に従事しており,領主側からは百姓身分として把握された。
兵農分離の端緒的形態は,戦国大名が行った検地の施行過程のうちに見いだされる。1563年(永禄6)武田氏が行った恵林寺領検地の場合,大名と主従関係を結んでいる軍役衆と,結んでいない非軍役衆(惣百姓)とに区別し,軍役衆には従来からの本年貢分にあたる本成方を検地の対象から外し,検地増分にあたる踏出分も全額年貢免除とするのに対し,非軍役衆である惣百姓の場合,本成方・公事諸役・踏出分を総計し,その4割を年貢免除とした。このように異なった方式をとるにあたっては,それ以前の由緒のいかんによらず,検地施行の時点で武田氏と主従関係があれば軍役衆,なければ惣百姓と認定されたのである。かつて侍分であっても,軍役奉仕を行っていない者には特典は与えられず,百姓身分に位置づけられ,このときに主人をもち軍役を負担している名主百姓は武士身分が得られた。中世社会には侍・凡下(ぼんげ)・下人という身分制があるが,これが近世の士・農・工・商に直ちに結びつくものではなく,たとえば中世の侍が近世の武士階級に移行するのではないことに注意する必要があろう。
織田信長・豊臣秀吉をはじめ,近世封建社会の組織化に成功した有力武士階級の出自が,かつての土豪・名主百姓など中世社会にあってはほとんど無名の存在であったことは,支配階級である武士が,中世と近世とでは大きく変化したことを示している。中世の荘園体制を支えていた室町幕府・守護大名など由緒ある家柄はもちろん,下剋上の過程で大きく浮かび上がった戦国大名の多くはすでに没落していた。織豊政権の成立に象徴される新興領主階級は,流動化していた身分関係を固定化し,自己の権力を安定させるため,伝統的な権威や国家支配の枠組みを利用しつつも,検地・刀狩をはじめ,あらたな身分秩序の樹立を目的とする法令を次々と発布し,具体的施策をうち出した。
秀吉が全国的に実施した太閤検地は,原則として耕地を一筆ごとに丈量して石盛(こくもり)をつけ,耕作責任者を定めて年貢納入の義務を負わせるとともに,その者の耕作権を保証するものとして検地帳に登録した。農民が耕作を放棄して他の土地へ移ったり,商人や職人になることは,1591年(天正19)の身分統制令によって厳禁された。大名が転封を命じられた場合,武士身分の者はすべて新しい封地へ移住するが,領内の百姓は一人も召し連れてはならないという法令も発布されている。
1588年の刀狩令は,京都東山にあらたに建立する大仏殿の釘などに用いるという口実で,農民の所持する鉄砲や刀剣類の没収をはかるもので,短時日のうちに多量の武具が秀吉の奉行人のもとに集められた。これによって被支配身分の者は武装を禁じられたのである。
刀狩令と同時に発せられた海賊禁止令(海上賊船禁止令)は,船頭・加子(かこ)(水主)から今後いっさいの海賊行為をしない旨の誓紙を徴収するものであるが,これを契機に,かつては各地の沿岸島嶼など海上交通の要衝を根拠地として活動した海賊衆は,諸大名の被官となり,水軍に組織されていった。一般漁民は武装解除されたうえ百姓身分となり,各地の沿岸で小規模漁業を営む専業者に確定づけられた。
このように,兵農分離を経過することによって,中世と近世は大きく区別される。近世の百姓は武具を持つこと自体が禁止されたことはもちろん,衣服や食事など日常生活の細かな点まで規制が加えられ,土地を離れることができなかった。この点,中世の百姓は法的には武装を禁じられておらず,去留自由の原則を有していたことと対照的である。
兵農分離は,日本における封建領主制の展開過程のうちで最も根本的な変革で,ヨーロッパや他のアジア諸国ではみられない現象とされている。それは,日本の中世の身分制度が,他の諸国ほど強固に法制化されておらず,支配身分の者の横の連携もみられず,多分に流動的要素をもっていたからであろう。中世末期において,地侍や名主百姓はともに在村して農業経営を行い,多数の従属労働力を抱え,みずからも武装していた。実体として両者はほとんど区別がない。この点,武力が貴族・官僚層の独占するところとなっていた諸外国と事情が異なっており,究極的には封建制の構造の差異に起因するものと思われる。その特質を具体的な史実に即して明らかにしていくことが必要であろう。
執筆者:三鬼 清一郎
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太閤(たいこう)検地によって推進された近世における身分制度と階級支配の基本政策。太閤検地以前、武士は農村に根拠地を置き、個々の農民を直接支配し、農業生産にも関与していた。また、農民も下剋上(げこくじょう)を通じて武士化することもあり、兵農は未分離であった。太閤検地はこの関係を断ち、武士と農民の関係を次のように整理した。第一に、武士は農業生産そのものに直接かかわることなく、個々の武士が個々の農民を個別的に支配することはしない。第二に、武士は農村から離れて城下町に集住し、支配階級としてまとまり、農民から連帯責任制などの経済外強制を通じて、米を中心とした生産物地代を搾取する(米納(べいのう)年貢制)。第三に、年貢米(生産物地代)を取り立てた大名は商人を通じてそれを換金し、必需物資を購入したり、家臣団の維持費を捻出(ねんしゅつ)する。以上の体制全体を兵農分離という。
次に兵農分離が貫徹される過程をみると、兵農分離は畿内(きない)・近国における惣村(そうむら)や在地領主制の解体によって体制化された。畿内・近国では、生産諸力の先進性を基礎とし、長百姓(おとなびゃくしょう)、有力名主(みょうしゅ)、地侍(じざむらい)などとよばれる小領主層の手作(てづくり)経営地が縮小し、それにかわって、平(ひら)百姓の自立化に基づく請作経営地が広まった。これにより、小領主層は、事実上生産過程から遊離し、小農生産に寄生するようになる(加地子(かじし)領主化)。豊臣(とよとみ)秀吉はこれら小領主層の農民支配権を奪い、彼らを家臣団に組み入れ、武士身分として確定した。この方式を秀吉は太閤検地の全国的施行のなかで推し進めた。これに対し、九州や東北では、在地領主層が農民支配の特権を奪われることに反対し、配下の農民まで率いて一揆(いっき)を起こすこともあった。秀吉はこれを鎮圧するとともに、1588年(天正16)刀狩(かたながり)令を出し、農民の武器所持を禁じ、農民は農業に専念すべきものとした。かくて武士と農工商身分は分離され、身分間の移動は禁止されることとなった。それとともに秀吉は、国内統一戦争と朝鮮侵略を通じ、長期長途の戦いに耐えうる兵農分離した武士団の創出を諸大名の領国に強制した。
[北島万次]
『山口啓二著『幕藩制成立史の研究』(1974・校倉書房)』
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武士と百姓の身分・階級がはっきりとわかれること。中世から近世にかけて進行した実現過程や近世の制度をさすこともある。武士と百姓の身分自体は中世から存在したが,その区分はあいまいで,多くの武士は農業経営から遊離していなかった。豊臣秀吉の太閤検地により,土地に対する百姓の耕作権が公認されたが,そのことは同時に百姓身分が確定されたことを示し,武士は土地を耕作者とともに知行として与えられ,支配階級としての身分を保障された。この百姓の持高と武士の知行高がレベルの違いをもって二重に存在することが,兵農分離の最大の特質である。さらに秀吉は刀狩を行って百姓の武力を奪い,武士が城下町に集住したことなどと相まって,社会的体制として固定化した。
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…統一政権の成立に抵抗する在地領主層の闘いであった。それゆえ,豊臣政権は一揆鎮圧を機に太閤検地を全国的に施行して兵農分離を進め,統一政権成立の方向をいっそう確実なものにした。【紙屋 敦之】。…
…仲裁の慣行は,内済制度として公儀の裁判制度の一環に組み込まれた。こうした変化の分水嶺になったのは,秀吉が〈天下惣無事〉を唱えて推進した兵農分離の政策であり,江戸幕府もこれを受けついだ。〈天下惣無事〉とは戦国の世に終止符を打つという名目のもとに〈無事〉すなわち和平を強制するもので,これによってすべての集団は紛争を武力で解決することを禁じられ,武士以外の集団は〈刀狩〉で自力救済の手段である武器を取り上げられた。…
… この志向を全国的規模で実現したのが豊臣秀吉であった。秀吉は検地(太閤検地)を基礎とした兵農分離によって武士,百姓,町人の身分を設定し,それによって全国民を支配する制度を創設した。検地の結果,戦国大名によっても完全に把握されなかった土豪的武士は士・農いずれかに整理されて下剋上に終止符が打たれ,士とされたものは秀吉を頂点とする大名以下の知行体系の中に位置づけられた。…
…一般百姓も〈中間(ちゆうげん)〉から〈かせ者〉へというようなコースで主もちの侍身分に取り立てられるのが名誉とみなされ,戦功の恩賞とされることがあった(〈児野文書〉)。 しかし戦国大名はやがて〈百姓等,武士へ奉公すべからず〉(1536年,〈安養寺文書〉)というように,武士と百姓(主なしの侍・凡下)の間を切り離そうとする政策をとるようになり,戦国末期には,大名に奉公し軍役をつとめる侍・凡下が軍役衆=兵であり,主なしの侍・凡下が百姓=農であるという新しい基準をもつ,いわゆる兵農分離の身分制度の形成される方向が現れてくる。この方向を制度として展開したのが豊臣政権で,〈侍・中間・小者・百姓〉などの奉公人が主人に無断でその関係を変更することは禁止され(1588年,〈浅野家文書〉),〈主をももたず,田畠作らざる侍共〉は農村から排除さるべきものとされた(1590年,〈平野荘郷記〉)。…
…国衆はなお独立的地位をたもち,戦闘にも自己の軍団をひきいて出陣したが,大名はこれらの家臣団の知行地の収益を貫高で統一的に把握し,それにみあった兵員・武具などを課する貫高制をしき,定量的軍役体系を完成させた。これら在地領主層の多くがすでに城下町に居を構えていたことは,朝倉氏の一乗谷,六角氏の観音寺城下などの遺構から知られ,この階層においてはすでに兵農分離が進展していたことがわかる。ところで,大名の軍事力増強の決め手は,これら領主階級の編成とともに,戦国の動乱をその基底でひきおこした新しい勢力である村落の指導者たる地主層を,いかに家臣として大量に組織化するかにかかっていた。…
…(1)日本の中世において16世紀末の兵農分離以前の兵,とくに雑兵(ぞうひよう)をいう。中世社会は兵農未分離で,武士は農村に土着し,農民もみずから武装しているのが常であり,ともに兵として徴発された。…
…武士身分の基本単位は〈家〉であり,〈家〉とは父子相伝を基本とする一個の団体で,個々の家の支配領域ないし所有物としての家産(所領,禄米),〈武〉という伝来の家業,一個の団体の名としての家名の統一物であったが,この家名,家業ということにかかわって苗字,帯刀が武士身分の基本的属性をなしていた。もっとも,中世には上層農民の中にみずから武装し苗字を名のる者があったが,近世に入って兵農分離,刀狩等の一連の国家の政策によって,苗字帯刀が原則として武士身分に固有の特権であることが制度的に確定される。しかし,例外があり,幕府,藩は特別の場合に士身分以外の者に苗字帯刀を許し,士身分に準ずる権威を与えていた。…
※「兵農分離」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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