越智越人(読み)オチエツジン

デジタル大辞泉 「越智越人」の意味・読み・例文・類語

おち‐えつじん〔をちヱツジン〕【越智越人】

[1656~1730ころ]江戸中期俳人越後の人。名古屋に住んだ。別号槿花翁きんかおう蕉門十哲一人で、「更科紀行」に芭蕉同行尾張おわり蕉風を開拓した。著「鵲尾冠しゃくびかん」「庭竈集にわかまどしゅう」など。

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精選版 日本国語大辞典 「越智越人」の意味・読み・例文・類語

おち‐えつじん【越智越人】

  1. えつじん(越人)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「越智越人」の意味・わかりやすい解説

越智越人
おちえつじん

[生]明暦2(1656).加賀
[没]? 名古屋
江戸時代中期の俳人。通称,十蔵 (または重蔵) 。別号,負山子,槿花 (きんか) 翁。延宝3 (1675) 年頃名古屋へ出て岡田野水の世話で染物屋を営み,以後名古屋蕉門として活躍。貞享 (84~88) 頃松尾芭蕉師事,伊良古旅行や『更科 (さらしな) 紀行』の旅に同行するなど芭蕉に親近したが,芭蕉晩年の新境地には追随することはできなかった。元禄中期以後俳壇から遠ざかり,正徳5 (1715) 年復帰,享保2 (17) 年には『鵲尾冠 (しゃくびかん) 』を刊行し,蕉門の古老をもって任じたが,句境は低調になった。同 10年各務 (かがみ) 支考一派が芭蕉をかつぎまわって名利の資としているのを怒って『不猫蛇 (ふみょうじゃ) 』を著わし,支考は『削りかけの返事』 (28) ,越人は『猪の早太』 (29) を書いて論争した。編著『俳諧冬農日槿花翁之抄』など。

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朝日日本歴史人物事典 「越智越人」の解説

越智越人

没年:享保末年(1736頃)
生年:明暦2(1656)
江戸前期の俳人。北越(越後か)に生まれ,名古屋に住む。その編書『鵲尾冠』のなかで,家が貧しく学問をしたことも本を読んだこともないといっているが,漢詩文にはかなり造詣が深かった。元禄1(1688)年,松尾芭蕉の『更科紀行』の旅に同行しそのまま2カ月ほど芭蕉庵に滞在。その後名古屋に帰って俳人として活躍したが,芭蕉の新風について行くことができず,孤独貧窮のうちに80歳くらいで没したという。のちに蕉門十哲に数えられるほどの人物でありながら,没年が分からないというのも珍しい。<参考文献>宮本三郎「越智越人」(『蕉風俳諧論考』)

(田中善信)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「越智越人」の解説

越智越人 おち-えつじん

1656-? 江戸時代前期-中期の俳人。
明暦2年生まれ。生地越後(えちご)(新潟県)をでて,名古屋の俳壇にはいり松尾芭蕉(ばしょう)に入門。蕉門十哲のひとりとして活躍したが,のち師からはなれ,晩年に俳壇に復帰した。享保(きょうほう)の末ごろ80歳前後で死去。通称は十蔵。別号に負山子,槿花翁。著作に「不猫蛇(ふみょうじゃ)」,編著に「猫の耳」など。
【格言など】ちる時の心やすさよけしのはな(「猿蓑」)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「越智越人」の意味・わかりやすい解説

越智越人
おちえつじん

越人

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世界大百科事典(旧版)内の越智越人の言及

【越人】より

…江戸前期の俳人。姓は越智,通称は十蔵。別号は負山子,槿花翁。北越の人。名古屋に出て《冬の日》の連衆野水(やすい)(呉服商)の世話で染物屋を営む。芭蕉への入門は1684年(貞享1)か。86年刊《春の日》の連句に出座,また発句9句を寄せた。87年11月,芭蕉に従い,三河保美に罪を得て隠栖する杜国(とこく)を訪ねる。88年8月,芭蕉の《更科紀行》の旅に同行。江戸深川の芭蕉庵にしばらく滞在し,其角,嵐雪ら蕉門の徒と風交を重ねる。…

※「越智越人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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