日本歴史地名大系 「足代村」の解説
足代村
あしろむら
吉野川北岸、讃岐山脈南側の河岸段丘上にあり、西は
慶長二年(一五九七)の分限帳に村名がみえ、益田内膳丞・中村藤兵衛・傍木半兵衛が各三〇八石余を知行。同九年の検地帳(三好郡誌)では高一千二二五石余、田方三三町一反余・畠方居屋敷八三町八反余・切畑二七町余。ただし同検地帳は現存しない。寛永七年(一六三〇)の知行割符帳(蜂須賀家文書)には村瀬将監の知行分として足代村七三石余・人数一二とある。正保国絵図では高一千二二五石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方四四七石余・畠畑方七七七石余、旱損・芝山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高一一三石余。同年の富田藩領地方帳によると、富田藩の家臣領一七四石余があり、不足高六斗余・川成九斗余で有高一七二石余、物成四四石余、請麦秋納枡二ツ五分六厘余、内麦二〇石余、夫銀一五二匁、入木三六〇束。「阿波志」によると陸田一〇分の三、水田一〇分の七で反別一六二町余。家数三二五。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高一千三四八石余。旧高旧領取調帳では蔵入地六〇四石余、八七二石余が長阪三郎左衛門など九名の給地。なお藩士の知行地については慶長検地後に佐渡・長坂(長阪)・斎の三家が各三三〇石ずつ拝領し、残余の三五七石は蔵入地であったが、後年の斎家が知行地没収となり、その分は元禄検地後に神田・加島(賀島)・山田・坪内・坂部の五家が拝領したという。また天明八年(一七八八)の検地後には牧・秋岡・幾島の三家が新たに知行地を拝領し、幕末に至ったというが(足代村誌)、旧高旧領取調帳に幾島氏の名はみえない。
おもに夫役徴収の台帳として作成された棟付帳は、明暦四年(一六五八)、延宝二年(一六七四)、享保六年(一七二一)、文化一〇年のものがある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報