足利政氏(読み)あしかがまさうじ

改訂新版 世界大百科事典 「足利政氏」の意味・わかりやすい解説

足利政氏 (あしかがまさうじ)
生没年:?-1531(享禄4)

室町後期の武将足利成氏の子。第2代古河公方(こがくぼう)。幕府と成氏の都鄙和睦成立後,元服して将軍義政の偏諱(へんき)を得て政氏と称す。従四位下,左馬頭に叙せられる。上杉氏勢力と協調し,公方権力の再編成を図るが,公方家内部の抗争で挫折した。とくに1506年(永正3)以来の子高基との数次にわたる武力抗争および義明らとの対立により,公方家の衰退を招いた。永正年代後期に高基が実質的に古河公方として存在するに至り古河城を離れて小山城,岩槻城等々を遍歴した。その後,出家して道号道長を名のり,武蔵久喜の甘棠院隠棲した。31年同所で没し,現在甘棠院に墓と寿像がある。
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朝日日本歴史人物事典 「足利政氏」の解説

足利政氏

没年享禄4.7.18(1531.8.30)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。成氏の子。2代古河公方。将軍足利義政の諱の1字をもらって元服,政氏と称す。左馬頭。弟顕実を上杉顕定養子とするなど上杉氏との連携を強化し,古河公方と関東管領を中心とする東国の支配秩序の再建に努力したが,子の高基,空然(義明),基頼らはこれに同調せず,それぞれに新時代への対応を模索し,父子間の溝を深めていった。永正3(1506)年,駿河今川氏や新興北条早雲と結んだ高基の決起とともに,父子間の数次におよぶ激しい抗争が開始されたが,その間に東国の大名,国人らの支持を失った政氏は,高基に古河公方の座を明け渡し,古河城を没落して下野小山城,武蔵岩槻城などに寄寓,流浪の身となる。やがて一部の家臣に守られ武蔵久喜の甘棠院に隠棲,出家して道長と号し,漸く世俗の権力闘争から自由の身となり,安穏な余生を送った。<参考文献>佐藤博信『古河公方足利氏の研究』

(市村高男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利政氏」の解説

足利政氏 あしかが-まさうじ

1466-1531 室町-戦国時代の武将。
文正(ぶんしょう)元年生まれ。足利成氏(しげうじ)の長男。扇谷(おうぎがやつ)上杉定正に擁されて山内(やまのうち)上杉顕定(あきさだ)とたたかったが,のち定正と対立し顕定とむすぶ。明応6年父の死により2代古河公方(こがくぼう)となる。北条早雲とむすんだ長男高基(たかもと)と不和になり,永正(えいしょう)9年古河を追われた。享禄(きょうろく)4年7月18日死去。66歳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利政氏」の意味・わかりやすい解説

足利政氏
あしかがまさうじ

[生]文正1(1466)
[没]享禄4(1531).7.18. 武蔵,久喜
戦国時代の武将。古河公方 (1497~1512) 。成氏の子。永正3 (06) 年子高基と不和になり,同 16年武蔵久喜に隠居。

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