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室町後期の武将。鎌倉公方(くぼう)足利持氏(もちうじ)の子。幼名永寿王丸。初代古河(こが)公方。生年については異説もある。永享(えいきょう)の乱の際、信濃(しなの)の大井氏のもとに逃れ、乱の終結後もそこにとどまっていたが、1448年(文安5)鎌倉公方になるべく鎌倉に帰り、翌1449年元服し成氏と名のった。しかし父持氏を討った上杉憲実(のりざね)の子である関東管領(かんれい)上杉憲忠(のりただ)との不和により、1454年(享徳3)憲忠を殺害し、享徳(きょうとく)の大乱を引き起こした。この結果幕府の追討を受け、1455年(康正1)今川範忠(のりただ)の攻撃を受けて鎌倉を逃れ下総(しもうさ)の古河に拠(よ)った。これ以後長くここを本拠として反幕府・反上杉氏の行動をとっていたことにより古河公方とよばれた。1482年(文明14)に幕府と和解(都鄙(とひ)の合体)、明応(めいおう)6年9月30日に没した。栃木県下都賀郡野木町野渡の満福寺内にある五輪塔が成氏の墓と伝えられる。
[小要 博]
『佐藤博信編『足利成氏文書集』(1976・後北条氏研究会)』▽『神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 通史編1』(1981・財団法人神奈川県弘済会)』
室町中期の武将。足利持氏の子。幼名は一般に万寿王丸とされている。後に初代の古河公方(こがくぼう)となる。1440年(永享12)の結城合戦に兄安王丸,春王丸らとともに参加する。兄2人は捕らえられ上洛の途中美濃で殺害されたが,成氏は逃れて信濃に入ったともいわれる。その後数年を経て鎌倉に戻り,幕府から正式に許されて鎌倉府を再建した。49年(宝徳1)には,将軍義成(後の義政)の偏諱(へんき)を得て成氏と称した。54年(享徳3)関東管領上杉憲忠を西御門の御所で謀殺した。以後,幕府・関東管領上杉氏と対立すること約30年に及んだ。この乱を享徳の乱と呼ぶ。成氏は,下総古河を本拠地として北関東の伝統的豪族層の支持を得た。俗に古河公方と呼ばれ,伊豆堀越(ほりごえ)に入部した堀越公方足利政知と対峙する。71年(文明3)下総古河を一時追われたが,再び回復し,その後上杉氏勢力の分裂をふまえて幕府との和睦を図る。82年都鄙和睦が成立し,享徳の乱に終止符を打った。その後,成氏は家督を嫡子政氏に譲った。
執筆者:佐藤 博信
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(山田邦明)
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1434?~97.9.30
室町中期~戦国期の武将。初代古河公方(こがくぼう)。鎌倉公方持氏の子。従四位下左兵衛督。幼名万寿王丸。法名乾亨院久山道昌。永享の乱(1438~39)後,鎌倉からのがれて信濃の国人大井持光を頼る。1447年(文安4)公方就任と鎌倉帰還をはたした。49年元服,将軍足利義成(のち義政)から1字をうける。54年(享徳3)上杉氏勢力一掃のため関東管領上杉憲忠を謀殺,幕府と上杉氏に対抗しようと古河に拠を移した。幕府から派遣された堀越(ほりごえ)公方に対し,これを古河公方という。以後長く上杉氏と戦うが,77年(文明9)和睦。ついで82年幕府とも和睦した。
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…室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。…
…1454年(享徳3)より82年(文明14)まで続いた関東の大乱。永享の乱(1438)ののち鎌倉公方(くぼう)は置かれていなかったが,1449年(宝徳1)8月足利持氏の遺子永寿王が京都から迎えられ,元服して成氏と称した。永寿王は結城(ゆうき)合戦でただ一人助かった持氏の末子である。一方,関東管領は上杉憲実の子憲忠が任ぜられており,成氏と憲忠の間はうまくいかなかった。成氏は下向すると千葉,小山,宇都宮らの豪族層を重用したため,山内上杉憲忠,扇谷上杉顕房の両上杉氏やその執事である長尾景仲,太田資清らとの間に不穏な空気が流れはじめ,翌年4月成氏は鎌倉から江ノ島に移り,長尾,太田らがこれを攻めるという事態となった。…
…鎌倉公方足利成氏(しげうじ)は,1454年(享徳3)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで,幕府から追討を受ける身となり,鎌倉を逃れ下総古河に御座を構えた。これ以後の成氏およびその後継者を古河公方と呼び,それ以前の鎌倉公方と区別するのが普通である。…
…こうした社会構造の変化の基底には,応永期を頂点とする農民闘争の高まりがあったことはもちろんである。 結城合戦で一命を助けられた持氏の遺児永寿王丸は,鎌倉公方足利成氏として復活した。ところが54年(享徳3)12月成氏は関東管領上杉憲忠を殺し,関東は再び享徳の大乱へと突入する。…
…フォッサマグナを境とする日本列島の東半部と西半部とは,植生などの自然条件に大きな差異があり,旧石器時代からすでに文化の違いがみられた。縄文時代,それはさらに鮮明になり,狩猟,漁労,採集の条件に恵まれた東日本には成熟した採集・漁労民の社会が形成されるが,西日本には朝鮮半島南東部ともかかわりをもつ漁労民の文化など,人口は東日本に及ばないながら独自な文化を保持したといわれる。そして縄文晩期,西北九州に稲作の技術が伝播したのを契機に始まる弥生文化が西日本に急速に広がったのに対し,東日本がしばらく縄文文化にとどまったことは,この差異をさらに著しいものにした。…
※「足利成氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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