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足利成氏 あしかがしげうじ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

足利成氏
あしかがしげうじ

[生]永享6(1434)
[没]明応6(1497).9.30. 古河
室町時代の武将。古河公方 (1455~97) 。鎌倉公方持氏の子。幼名永寿王。永享 11 (39) 年2月持氏が永享の乱に敗れて鎌倉で自害したとき,瑞泉寺の僧昌在に保護されて,のち信濃の大井持光を頼った。翌年3月兄春王,安王の下総結城 (ゆうき) での挙兵に参加したが,翌月落城,春王,安王は美濃で殺された。成氏は許されて在京していたが,宝徳1 (49) 年上杉房定が関東の諸将にはかり,室町幕府に願って鎌倉公方としたため東下して,9月鎌倉に入った。次いで 11月元服。同3年2月従四位下左兵衛督となる。成氏は,父持氏を敗死させた上杉憲実および憲忠の父子を憎み,一度は幕命を奉じて和睦したものの,享徳3 (54) 年 12月には憲忠を鎌倉の屋形に襲い殺した。幕府はただちに成氏追討を命じ,関東は成氏と上杉氏との対抗を中心に大動乱に陥った。康正1 (55) 年正月成氏は武蔵分倍河原 (ぶばいがわら) に出陣して,憲忠のあと上杉家を継いだ弟の房顕を破り,以後,次々と上杉方の諸将を攻めた。しかし6月になると,幕命を受けた駿河守護今川範忠の軍に鎌倉を奪われ,成氏は長禄1 (57) 年下総古河城を治めて,ここに拠った。幕府はさらに将軍義政の弟政知を伊豆堀越に下し,関東を鎮定させようとした。政知を堀越公方,成氏を古河公方と呼ぶのはここから出た言葉である。これより戦況は一進一退して決定しなかったうえ,文明9 (77) 年には房顕の後嗣顕定とその家臣長尾景春との間に戦いが起り,関東は一層乱れた。かくて成氏,上杉氏とも次第に勢力を失い,同 10年成氏は顕定と和した。次いで同 14年成氏は幕府,政知とも和睦した。

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デジタル大辞泉の解説

あしかが‐しげうじ〔‐しげうぢ〕【足利成氏】

[1434~1497]室町中期の武将。鎌倉公方(くぼう)となり、享徳3年(1454)管領上杉憲忠(うえすぎのりただ)を殺して幕府と対立。翌年下総(しもうさ)古河(こが)に移り、古河公方と称した。

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百科事典マイペディアの解説

足利成氏【あしかがしげうじ】

室町時代の武将。持氏(もちうじ)の子。永享の乱ののち信濃(しなの)にのがれていたが,1447年鎌倉公方となり,鎌倉にはいった。1454年上杉憲忠を謀殺したことから上杉氏との争いが起こり,翌年下総(しもうさ)国古河(こが)に移った(古河公方)。
→関連項目関東管領平井城

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

足利成氏 あしかが-しげうじ

1434/38-1497 室町時代の武将。
永享6/10年生まれ。足利持氏(もちうじ)の4男。結城(ゆうき)合戦後,2人の兄は殺されたが,成氏は幼年のためゆるされた。宝徳元年父の跡をついで5代鎌倉公方(くぼう)となる。享徳3年関東管領(かんれい)上杉憲忠(のりただ)を殺して幕府の追討をうけ,下総(しもうさ)古河(こが)(茨城県)にうつって古河公方とよばれた。文明14年幕府と和睦(わぼく)した。明応6年9月30日死去。60/64歳。幼名は永寿王丸。

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朝日日本歴史人物事典の解説

足利成氏

没年:明応6.9.30(1497.10.25)
生年:永享6(1434)
室町時代の武将。鎌倉公方,古河公方。持氏の子。左馬頭,左兵衛督。永享の乱で父持氏が滅亡すると,信濃に逃れて大井氏にかくまわれ,文安4(1447)年に迎えられて鎌倉に入り鎌倉公方となった。しかし関東管領上杉憲忠を核とする上杉派と,成氏のもとに結集した公方派の対立は深まり,宝徳2(1450)年に成氏は鎌倉を逃れて江の島に入り,まもなく反撃して鎌倉に戻った。そして享徳3(1454)年の暮れ,憲忠を御所に招いて謀殺し,翌康正1(1455)年には鎌倉を出発して武蔵で上杉方と戦い,以後上杉方と全面的な戦闘に突入。結局そのまま下総の古河に入り,その後は鎌倉に帰ることなく古河に居を定め(古河公方),周辺の騎西,関宿,栗橋に近臣の佐々木,簗田,野田氏を配置して自らの拠点を固める一方,小山,結城,千葉らの大名を味方につけて上杉方と戦いを続けた。京都の室町幕府は上杉方を支持して成氏方を反乱軍と断定し,これを抑えるために将軍足利義政は弟政知を関東に派遣(堀越公方)。それに対し成氏は享徳の年号を使い続けるなど独立の動きを示した。文明3(1471)年上杉方に攻められ古河から逃走するが,翌年には古河に戻り,同9年末上杉氏と和睦,14年末には幕府との和睦も実現した。こうして30年におよぶ戦乱は終わり,成氏はその勢力圏を保持したものの,結局鎌倉に帰ることはできず古河の地で死去した。<参考文献>佐藤博信『古河公方足利氏の研究』

(山田邦明)

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世界大百科事典 第2版の解説

あしかがしげうじ【足利成氏】

1434‐97(永享6‐明応6)
室町中期の武将。足利持氏の子。幼名は一般に万寿王丸とされている。後に初代の古河公方(こがくぼう)となる。1440年(永享12)の結城合戦に兄安王丸,春王丸らとともに参加する。兄2人は捕らえられ上洛の途中美濃で殺害されたが,成氏は逃れて信濃に入ったともいわれる。その後数年を経て鎌倉に戻り,幕府から正式に許されて鎌倉府を再建した。49年(宝徳1)には,将軍義成(後の義政)の偏諱(へんき)を得て成氏と称した。

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大辞林 第三版の解説

あしかがしげうじ【足利成氏】

1434~1497) 室町時代の武将。初代古河公方こがくぼう。持氏の子。1449年鎌倉公方。54年関東管領上杉憲忠(1433~1454)を殺害して幕府と対立。55年下総古河城に移って古河公方と称し、堀越ほりごえ公方足利政知まさともと関東の支配権をめぐって対抗した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

足利成氏
あしかがしげうじ
(1434―1497)

室町後期の武将。鎌倉公方(くぼう)足利持氏(もちうじ)の子。幼名永寿王丸。初代古河(こが)公方。生年については異説もある。永享(えいきょう)の乱の際、信濃(しなの)の大井氏のもとに逃れ、乱の終結後もそこにとどまっていたが、1448年(文安5)鎌倉公方になるべく鎌倉に帰り、翌1449年元服し成氏と名のった。しかし父持氏を討った上杉憲実(のりざね)の子である関東管領(かんれい)上杉憲忠(のりただ)との不和により、1454年(享徳3)憲忠を殺害し、享徳(きょうとく)の大乱を引き起こした。この結果幕府の追討を受け、1455年(康正1)今川範忠(のりただ)の攻撃を受けて鎌倉を逃れ下総(しもうさ)の古河に拠(よ)った。これ以後長くここを本拠として反幕府・反上杉氏の行動をとっていたことにより古河公方とよばれた。1482年(文明14)に幕府と和解(都鄙(とひ)の合体)、明応(めいおう)6年9月30日に没した。栃木県下都賀郡野木町野渡の満福寺内にある五輪塔が成氏の墓と伝えられる。[小要 博]
『佐藤博信編『足利成氏文書集』(1976・後北条氏研究会) ▽神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 通史編1』(1981・財団法人神奈川県弘済会)』

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世界大百科事典内の足利成氏の言及

【鎌倉公方】より

…室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。…

【享徳の乱】より

…1454年(享徳3)より82年(文明14)まで続いた関東の大乱。永享の乱(1438)ののち鎌倉公方(くぼう)は置かれていなかったが,1449年(宝徳1)8月足利持氏の遺子永寿王が京都から迎えられ,元服して成氏と称した。永寿王は結城(ゆうき)合戦でただ一人助かった持氏の末子である。一方,関東管領は上杉憲実の子憲忠が任ぜられており,成氏と憲忠の間はうまくいかなかった。成氏は下向すると千葉,小山,宇都宮らの豪族層を重用したため,山内上杉憲忠,扇谷上杉顕房の両上杉氏やその執事である長尾景仲,太田資清らとの間に不穏な空気が流れはじめ,翌年4月成氏は鎌倉から江ノ島に移り,長尾,太田らがこれを攻めるという事態となった。…

【古河公方】より

…鎌倉公方足利成氏(しげうじ)は,1454年(享徳3)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで,幕府から追討を受ける身となり,鎌倉を逃れ下総古河に御座を構えた。これ以後の成氏およびその後継者を古河公方と呼び,それ以前の鎌倉公方と区別するのが普通である。…

【下野国】より

…こうした社会構造の変化の基底には,応永期を頂点とする農民闘争の高まりがあったことはもちろんである。 結城合戦で一命を助けられた持氏の遺児永寿王丸は,鎌倉公方足利成氏として復活した。ところが54年(享徳3)12月成氏は関東管領上杉憲忠を殺し,関東は再び享徳の大乱へと突入する。…

【東国】より

…フォッサマグナを境とする日本列島の東半部と西半部とは,植生などの自然条件に大きな差異があり,旧石器時代からすでに文化の違いがみられた。縄文時代,それはさらに鮮明になり,狩猟,漁労,採集の条件に恵まれた東日本には成熟した採集・漁労民の社会が形成されるが,西日本には朝鮮半島南東部ともかかわりをもつ漁労民の文化など,人口は東日本に及ばないながら独自な文化を保持したといわれる。そして縄文晩期,西北九州に稲作の技術が伝播したのを契機に始まる弥生文化が西日本に急速に広がったのに対し,東日本がしばらく縄文文化にとどまったことは,この差異をさらに著しいものにした。…

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