日本歴史地名大系 「車村」の解説 車村くるまむら 山口県:岩国市車村[現在地名]岩国市車町(くるままち)一―三丁目・三角町(みすみまち)二丁目の全域、川下町(かわしもまち)一―三丁目の各一部現岩国市域の東部で、錦(にしき)川の河口、今津(いまづ)川と門前(もんぜん)川に挟まれた三角州上の村。北は向今津(こいまづ)、南は中津(なかづ)の両村。寛永二〇年(一六四三)に岩国庄を分割してできた小村で、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に村名がみえる。村名の由来は「享保増補村記」に「当村ハ人家無之時、中津村ニ居住セシ加陽浄全トイヒシモノ田屋ヲ作リ、中津境ノ川ニ水車ヲカケテ用水トセシ故ニ、車ト村名ヲ称セリ、郷俗伝来ノ説」とある。村ができた寛永―慶安頃、人家があったのは車・小車(こぐるま)などのみで、海岸線はたやの下(した)・下車(しもぐるま)・姥(うば)ヶ原(はら)の西付近。 車村くるまむら 兵庫県:神戸市須磨区車村[現在地名]須磨区車・若草町(わかくさちよう)一―三丁目・東白川台(ひがししらかわだい)二―三丁目・同五丁目・白川台(しらかわだい)四丁目・東落合(ひがしおちあい)二―三丁目・緑(みどり)ヶ丘(おか)一丁目・清水台(しみずだい)六甲(ろつこう)山地西部、妙法寺(みようほうじ)川の源流部に位置し、南は妙法寺村。正和四年(一三一五)一二月五日の兵庫下庄白河車造両畑田畠数惣目録(藤田文書)にみえる兵庫下庄の車造(くるまつくり)は当地のこととみられ、田数四町二反余・畠数五反余で、妙真名・妙阿弥陀仏名・後藤三名・記藤三名・検杖(校か)名などの名があった。車畑(くるまはた)ともいい、貞和四年(一三四八)九月日の長田社供物注文(大中文書)によると、白河(しらかわ)・車両畑から薪・松・稲・山折敷・栗・柿・白米入紙袋などを長田神社(現長田区)に納めていた。 車村くるまむら 石川県:金沢市旧河北郡地区車村[現在地名]金沢市車町森下(もりもと)川を挟んで野(の)村の西に対する。正保郷帳では牧山(まきやま)村と並記され、高四二〇石余、田方一二町六反、畑方一五町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一九〇石、免五ツ一歩、小物成は山役二六二匁・蝋役二匁・綿役一匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数七・百姓数一〇(高免付給人帳)。安政二年(一八五五)の高一四一石、家数二〇・人数一〇七、野村・高坂(たかさか)村・古屋谷(ふるやだに)村との四ヵ村入会の新田高二八石余があり、引免一ツ二歩(「高免家数人数等書上」亀田文書)。日蓮宗宝乗(ほうじよう)寺は暦応二年(一三三九)日像の弟子妙珎が開いたと伝える(貞享二年寺社由緒書上)。 車村くるまむら 茨城県:北茨城市車村[現在地名]北茨城市華川(はなかわ)町車大北(おおきた)川の支流花園(はなぞの)川の左岸に位置し、北は神岡下(かみおかしも)村。花園川とその支流根小屋(ねごや)川の流域に平地が開け、北東部は低い山である。「新編常陸国誌」に古くは「砥上(とがみ)」と称したとあるが、砥上の地は下相田(しもそうだ)村に比定され、誤伝である。文禄四年(一五九五)の岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)に「弐百五拾三石六斗九升 同(車ノ内)車城廻」とある。「多珂郡地理考」によると慶長九年(一六〇四)に車村と改称した。 車村くるまむら 大分県:佐伯市車村[現在地名]佐伯市狩生(かりう) 車狩生村のうち、狩生本村の東に位置。慶長期(一五九六―一六一五)には戸穴(ひあな)村に属した。慶長六年六月の戸穴村検地指出帳(佐伯藩政史料)にくるま村とみえ、文禄二年(一五九三)の検地高は田高二〇石余・畑高一五石余・屋敷高一石余、うち永荒一二石余。慶長六年五月の戸穴村検地指出帳(同史料)によれば、同二年の検地高六五石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by