妙法寺村
みようほうじむら
[現在地名]須磨区妙法寺・横尾一―八丁目・東落合一―二丁目・中落合一―四丁目・南落合一―四丁目・道正台一丁目・緑ヶ丘二丁目・清水台・竜が台一丁目
六甲山地西部、妙法寺川上流域の山間部に位置する。南は板宿村。西代村蓮池(現長田区)の西で山陽道から分岐し、妙法寺川沿いに太山寺(現西区)方面へ抜ける道は太山寺道(三木街道)とよばれる。慶長国絵図には村を示す小判形の印が川沿いに三つ描かれ、中央にのみ妙法寺村と記され、高二七五石余。
妙法寺村
みようほうじむら
[現在地名]八日市市妙法寺町・東沖野四―五丁目
野村の南東にあり、南西は尻無村・下大森村、北東を愛知川が流れる。村域には五世紀中葉頃の築造と推定される熊の森古墳のほか、八咫森社・綾の森の古墳がある。村名はかつてこの地にあった妙法寺にちなむと推測される。「後法興院記」長享元年(一四八七)一〇月五日条に「御園内妙法寺村延命寺」とみえる。近衛家祈願寺である延命寺から、寺領違乱の族を停止せよとの下知を与えられた礼銭として一〇〇疋が近衛家に進められた。
妙法寺村
みようほうじむら
[現在地名]安濃町妙法寺
長谷山(三二〇・六メートル)東麓の山地と穴倉川両岸の平地部にまたがる広い村域を有し、浄土寺村の南、今徳村の東南にあたる。集落は穴倉川左岸の平地にある。古くは大市とよんだようであるが、妙法寺の寺名により妙法寺村となった(三国地志、五鈴遺響)。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「妙法寺」と現れ、藤堂氏入封後、寛文九年(一六六九)まで津藩領、以後久居藩領。寛延(一七四八―五一)頃の戸数五〇、ほかに郷士一、人口二一九、馬二、牛九。神祠に天王牛頭・愛宕・虚空蔵、寺院に妙法寺・西林寺があった(宗国史)。明治五年(一八七二)の村明細帳(徳川林政史蔵)には戸数四一、人数一七〇(男八二・女八八)、大工・牛馬苦労各一、牛一三。
妙法寺村
みようほうじむら
[現在地名]西山町妙法寺
北は坂田村、南は小黒須村(現柏崎市)・大坪村、東は妙法寺峠を境とする油田村(現刈羽村)、西は北野村。柏崎と長岡を結ぶ妙法寺峠越の長岡道が通る。古くから草生水を産出して重宝していたので如宝地といったとの伝えがある。慶長二年(一五九七)九月、上杉氏の家臣河村彦左衛門の検地による検地帳写(西村家文書)表紙には如宝寺村、同三年の堀氏の検地による検地帳(同文書)には如法寺村、元和二年(一六一六)の椎谷藩堀直之の定免相には妙法寺村と記される。
妙法寺村
みようほうじむら
[現在地名]武生市妙法寺町・文京一―二丁目・御幸町
妙法寺山東麓にある村。地名は、南北朝時代すでに当地にあったと思われる妙法寺に由来すると考えられ、暦応三年(一三四〇)九月日付石河頼景軍忠状(天野文書)に「妙法寺麓」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名と高八三三・九九石が記され、正保郷帳によると田方七八九石余・畠方四四石余。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領となり、宝暦八年(一七五八)以降美濃国郡上藩領。
村名となった妙法寺は、「鹿苑日録」天文一三年(一五四四)四月一八日条に「日円・妙法越前国甲刹之寺也。
妙法寺村
みようほうじむら
[現在地名]橿原市北妙法寺町
土橋村南方の環濠集落。文禄四年(一五九五)の検地による村高二〇三・八八石。慶長郷帳には「明法寺村」とある。慶長五年(一六〇〇)以降旗本神保氏(相茂系)領となる。高市郡には妙法寺村が南北に二つ存し、明治一三年(一八八〇)に南の妙法寺村(現南妙法寺町)が南妙法寺村としたい旨改称願を提出、翌年許可。
妙法寺村
みようほうじむら
[現在地名]橿原市南妙法寺町
鳥屋村南方、貝吹山東北麓の傾斜地に立地する。文禄検地による村高は一一二・五石。検地奉行は石田正澄。江戸時代を通じて高取藩領。
妙法寺村
みようほうじむら
[現在地名]玉城町妙法寺
田丸城下の東北に接してある。北は沖積平野、南は湯田野でその接点に集落があり、沖積低地には条里制遺構が認められる。近世は和歌山藩田丸領。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 