辰巳村(読み)たつみむら

日本歴史地名大系 「辰巳村」の解説

辰巳村
たつみむら

[現在地名]佐和田町八幡

国府こうの川右岸の河口付近一帯の砂丘地に立地。国府川に架けられていた小木おぎ街道(現国道三五〇号)の公儀普請の大橋国府川橋を渡ると四日町よつかまち(現真野町)。もとは飛砂の舞う砂浜であった。「撮要佐渡年代記」によると、享保二〇年(一七三五)山田やまだ村の豪農太郎右衛門が、八幡やはた村地内の荒地一〇町歩のうち五町歩を御林として松の苗木七万八千本を植えて砂防林とし、残りを新田とすることを奉行所に願出た。奉行所は米一千四〇〇俵を開発費として貸下げ、元文元年(一七三六)辰年に着手、翌二年巳年に完成した。

辰巳村
たつみむら

[現在地名]岡山市辰巳・いま四丁目・同七―八丁目

田中たなか村の東にあり、東は今村、南は平吉ひらよし新田、北は中仙道なかせんどう村。寛永備前国絵図に村名がみえ、高七一九石余。「備陽記」によると田畑四五町七反余、家数五五・人数三四七。文化年間「岡山藩領手鑑」では直高一千一二〇石余、蔵入と家臣一一名の給地。田高七五九石余・畑高三八石余、家数六一(本村五一・新田一〇)

辰巳村
たつみむら

[現在地名]篠山市今田町辰巳

上小野原かみおのばら村の北東に位置する。東の不来坂このさか村に通じる不来坂峠越の道がある。もと上小野原村のうちで、天保一四年(一八四三)に分立したとされる(園田家文書)。同村は当地が粗悪な地味であるとして耕作を放棄、篠山藩は小野原村内の上田を付して大山宮おおやまみや村の豪農園田庄十左衛門に再開発を依頼、園田は味間あじま村・宇土うど村の百姓を移住させて耕作にあたらせ、弟の七郎左衛門に支配を任せ、嘉永元年(一八四八)に来住している(多紀郡明細記)

辰巳村
たつみむら

[現在地名]長浜市山階町やましなちよう

戌亥いぬい村の東に位置し、東は加納かのう村、南は南田附みなみたづけ村。永享一二年(一四四〇)六月五日、悟位女が「江州辰巳東」について幕府に訴えたことが知られるが(政所方書)、詳細は不明。天文五年(一五三六)五月の伊冨貴大菩薩奉加帳(金剛輪寺文書)に山階辰巳の太郎左近・神主・祐泉庵などの名がみえる。寛永石高帳では高三一八石余、彦根藩領三九石余・旗本渡辺領二七八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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