郡家庄(読み)ぐんけのしよう

日本歴史地名大系 「郡家庄」の解説

郡家庄
ぐんけのしよう

根上ねあがり町南東部から寺井てらい町西部および小松市北端部一帯に比定される皇室領庄園。領家職・地頭職ともに勧修かじゆう(現京都市山科区)が保有、板津いたづ庄とも称した。古代の能美郡衙(郡家)縁辺の開発領が庄領となり、郡家の故地を領域に含んだことが庄名の由来と推定される。庄域には長野ながの保・東吉光ひがしよしみつ(現寺井町)などがあり、のちにはなか庄・みなみ庄・北庄に分れ、中庄に任田とうだ(現根上町・寺井町)、南庄に上郷(現小松市)高坂たかさか郷・二口ふたくち・下郷などを含んでいた。従来は古代の江沼えぬま郡家ぐうけ(和名抄)に関連する庄園とされていたが、「勧修寺門跡領加賀国能美郡郡家庄」などとみえることから(永正元年五月三日「足利義澄御判御教書」勧修寺文書など)、能美郡の庄園と考えられるようになった。

仁安三年(一一六八)の無量寿院相折米月宛支配注文案(安楽寿院古文書)に「郡家庄」とみえ、安楽寿あんらくじゆ(現京都市伏見区)に付属して建立された無量寿院の料米四〇四石余のうち計八六石余を負担している。同注文では「平等院用途残」と注記があり、本来安楽寿院の平等王院に付された庄園であった。年未詳の平等王院供料米等月宛支配注文案(同文書)では、料米一七〇石余のうち五―一二月までの計一一三石余を負担している。安元二年(一一七六)二月、当庄を含む安楽寿院領鳥羽法皇の皇女八条院子に伝領された(「八条院領目録」高山寺聖教類裏文書)。嘉応三年(一一七一)二月、国衙在庁と思われる中原頼貞は板津庄示外の重友しげとも(現寺井町)を介次郎(板津成景)に譲り(「中原頼貞譲状」石清水文書)、成景は建仁元年(一二〇一)七月二〇日、同所(このときは能美庄のうち)を次男三郎景高に譲っている(「介某譲状案」同文書)。このとき重友村(保)の四至は「西限郡家長野」「北限郡家東吉光保」であった。

板津氏は鎮守府将軍藤原利仁を祖と主張する加賀斎藤系武士団林氏の庶流で(尊卑分脈)、板津介成景は国衙在庁である介の地位を利用しながら、国衙周辺に白江しらえ(現小松市)・長野保・重友村などの開発(再開発)を進め、白江保を本拠とし介の地位を継承した白江氏、当庄長野保を本拠とする長野氏や江沼氏(「尊卑分脈」にはみえない)などの庶家に分れていくが、ともに名前に「景」の通字を用いている。

宝治元年(一二四七)一一月当庄に関する院宣を所持していると主張する山門衆徒から狼藉を受けたため、勧修寺から後嵯峨院へ訴えが起こされ、一二月一日とりあえず山門衆徒の狼藉停止が命じられている(「経俊卿記」一一月一三日・一四日・二九日・三〇日、一二月一日条)


郡家庄
ぐんげのしよう

篠山盆地の中央部、篠山川支流の藤岡ふじおか川下流域の現郡家一帯に比定される庄園。「後光厳院日記」応安三年(一三七〇)九月四日条によれば、後光厳天皇が三宝院光済を幕府に遣わし、譲位の日時・料所や御所のことを諮った際、渡し進めるべき御領のなかに丹波国「郡家村」がみえる。同七年一一月三日の宝池院光助に宛てた後円融天皇綸旨(柳原家記録)によって、丹波国「郡家庄」などの知行が安堵されている。応永一八年(一四一一)九月二八日の足利義持御判御教書案(大徳寺真珠庵文書)によれば、丹波国郡家預所職などが比丘尼真妙の譲状にまかせて宝慈ほうじ(現京都市上京区)に安堵されているが、宝慈院は千代野ちよの御所ともいい、光厳天皇皇女華林尼の入寺後、尼門跡となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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