郡山宿(読み)こおりやましゆく

日本歴史地名大系 「郡山宿」の解説

郡山宿
こおりやましゆく

[現在地名]茨木市宿川原町

江戸時代の西国街道(山崎通)の宿駅。道祖本さいのもと宿河原しゆくがわらが中心で本陣も同村内にありながら郡山宿と称した。延宝元年(一六七三)成立の「武家事記」に「下郡山町五町十二間、道祖本村十七町卅間」とある下郡山しもこおりやま町に相当するとみられる。東は芥川あくたがわ宿(現高槻市)を経て山崎やまさき(現三島郡島本町)伏見ふしみ(現京都市伏見区)へ、西は瀬川せがわ宿(現箕面市)から西宮にしのみや(現兵庫県西宮市)に至る。また瀬川宿から小浜こはま(現兵庫県宝塚市)有馬ありま(現神戸市)方面に向かう有馬道が分岐した。「忠富王西宮参拝記」延徳二年(一四九〇)一〇月二六日条に「宿河原ニ西宮ヨリ鞍置馬三疋御迎ニ参」とあり、蓮如の子順興寺実従は永禄三年(一五六〇)二月二五日、有馬温泉からの帰途、瀬川で昼食をとって郡山に来ており(私心記)、中世以来の交通の要地であった。慶長一一年(一六〇六)一二月一二日付で片桐且元が郡山・小浜馬方中などに宛てた判物(奥田家文書)に「従山崎郡山まて上下可有之、宮田と郡山ハ一所ニ相加り、小浜まて上下可致之事」とみえ、旅行者の迷惑にならないよう荷留は山崎・郡山・小浜以外では禁止するなど、郡山宿は山崎―小浜・西宮間の重要な拠点であった。一九世紀初頭成立の山崎通分間延絵図によると、中川原石橋(現鍛冶屋橋)の東にある西町石橋を境に東町と西町に分れ、東町北側に本陣、南側に高札場があって、高札場脇からは茨木・大坂方面へ至る道があった。

郡山宿
こおりやましゆく

[現在地名]郡山市大町一―二丁目・中町・本町一―二丁目など。

奥州道中(近世前期には仙台・松前道ともいう)の宿駅。中世末には交通・経済上の要衝の地で、天正一六年(一五八八)伊達政宗から当地の商人山本伊勢守が奥筋通行について一〇匹・一〇駄を免許されている(同年七月二〇日「伊達政宗過書」鹿野文書)。奥州道中は阿武隈川沿いであったが、慶長年間(一五九六―一六一五)西寄りに改修整備され当地に宿駅が置かれた。元和年中(一六一五―二四)に町割が実施され、これに携わった今泉家は功により以降代々名主職を勤めた。会津領時代は町並も短かったが、寛永二〇年(一六四三)二本松藩領となってから人口も漸増、かみ町・下町に分けられた(「郡山旧事記」郡山市史)。元禄元年(一六八八)の上町人別帳(福島県史)によれば、上町分の高一千二八八石余、家数二〇五(高持一〇八・無高四四・水呑二三・店借二七・名子三)、人数七九九、馬八四。翌年四月芭蕉に従った曾良の「旅日記」に「日入前郡山ニ到テ宿ス、宿ムサカリシ」とあり、いまだ農村の姿をとどめていたようであるが、享保二年(一七一七)の郡山組大概帳(福島県史)には、田畑稼者は三分の二で三分の一は旅籠屋・商人とみえ、宿駅の体裁が整ってきていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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