大崎村(読み)おおさきむら

日本歴史地名大系 「大崎村」の解説

大崎村
おおさきむら

[現在地名]大和町大崎

水尾みずお村の東と北、南は八海はつかい山の西に延びる尾根の猿倉さるくら山・堂平どうだいら山、東は穴地あなじ村、北西はやなぎ古新田。三国街道の主流が魚野うおの川左岸に移る前は小出島こいでじま(現北魚沼郡小出町)方面より当地を経て二日町ふつかまち(現六日町)と結ばれていた。天正八年(一五八〇)閏三月一三日の丸山無兵衛宛の上杉景勝知行宛行状(上杉年譜)に「上田大河大崎村之内、大津分」とみえる。正保国絵図に村名があり、高七三〇石余。天和三年郷帳では高九六三石八斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では田六二町三反余・畑四二町四反余、家数一七六、男四九二・女三五七、馬四五。百姓林には栗・楢がある。天保九年(一八三八)の村明細帳(明治大学刑事博物館蔵)によると、大工・木挽・鍛冶・紺屋がいる。村の北にある標高三〇六・八メートルの坊谷ぼうたに山は柳古新田との入会山。堂平山も水尾村・水尾新田との入会山。坊谷山の北方に広がる八色原やいろがはらにも海士島あまがしま新田・柳古新田との入会地があり、いずれも秣・田肥に利用する。


大崎村
おおさきむら

[現在地名]吾川村大崎・峰岩戸みねいわど岩戸いわど大板おおいた寺村てらむら蕨谷わらびだに中村なかむら葛原くずはら藤ノ野ふじののさくら鹿森ししもり長屋ながや池川いけがわ町池川 北浦きたうら

黒森くろもり山の南西に位置し、村域は東西一里三六町、南北三八町余(土佐州郡志)。南を仁淀によど川が東に曲流し、西はその支流池川川を隔ててかわ相能あいのうの両村。集落はこの両河川沿いと、山腹のわずかな平地に散在する。

天正一八年(一五九〇)の片岡郷地検帳に「是より大崎村」として、北浦村五筆、鹿森之村二〇筆、大藪之村一九筆、藤ノ野村三二筆、永ヤノ村一三筆、西川井ノ村七筆、大崎土居村一二筆、葛原村一六筆、中村一八筆、蕨谷ノ村二八筆、下大崎村六九筆、カミチ村四筆、嶺岩戸村八筆、下岩戸村一二筆、大イタノ村一九筆が記される。


大崎村
おおさきむら

[現在地名]米子市大崎

富益とみます村・和田わだ村の南にあり、西は葭津よしづ村、南は中海に面する。内浜境うちはまさかい往来が南東から北西へ走る。地名は弓浜半島突端部分を示したものと思われる。また古くは岩屋いわや村と称したとされ、村内から箱式石棺の一部や石器・土器の出土があったという(伯耆志)。大崎村古記録(崎津村史)によれば当村の開発は近世前期で、わたり(現境港市)の長三郎・長五郎ら六人は、農間稼の流し網・置網漁業に中海奥部に出かけているうち、当村地所を見込んで新田開拓を思い立った。その頃葭津村から粟島あわしま村までの約二〇町は人家もない一円雑草地であったという。長三郎らは渡村から開拓に数年通い、作付が良好であったので新田開発を出願、貞享元年(一六八四)許可を受けた。元禄元年(一六八八)には小篠津こしのづ(現境港市)から五郎左衛門・弥兵衛ら一〇人、次いで同村から善吉ら八人が開作に参加し、都合二四人が同三年に地所割をして本格的村開きとなった。


大崎村
おおさきむら

[現在地名]佐原市大崎

下総台地北部に位置し、北は牧野まきの村、西は観音かんのう村。集落は北部の丘陵地に形成され、水田は丘陵の東西を北流する香西かさい川およびその支流の谷に広がり、南部には畑地が広がる。中世は大戸おおと庄に属した。応安四年(一三七一)一〇月九日の寿歓(国分胤詮)寄進状(房総古文書雑纂)によると、「大戸庄大崎村内佃弐段」が大竜だいりゆう寺に寄進された。同五年一〇月九日には「大戸庄観音村仁田」に所在する「大崎後家跡田弐段」が大竜寺に寄進されている(「沙弥寿歓寄進状」同雑纂)

慶長四年(一五九九)の矢作領検地では検地高九四二石余(「部冊帳」伊能家文書)。同七年の鳥居忠政転封後、寛永八年(一六三一)まで旗本脇坂領であったが、いったん幕府領となった(平山家文書)


大崎村
おおさきむら

[現在地名]防府市大字大崎の大部分

佐波さば川の河口右岸、凌巌寺りようごんじ山の東、西目にしめ山南麓の村で、古くから山陽道の佐波川渡渉場(渡船場)であると同時に、湾が入り込んだ海路交通の要衝でもあったと思われる。萩藩領で三田尻宰判に属する。

古代、この地には大前おおさき駅があり(日本紀略)、付近は「和名抄」所載の玉祖たまのや郷の地とされ、式内社の玉祖神社が祀られる。

中世は大前新庄・大前村とよばれていたらしく、建武三年(一三三六)には足利尊氏によって周防大前村地頭職が東大寺八幡宮に寄進されている(東大寺雑集録)


大崎村
おおさきむら

[現在地名]松浦市御厨町みくりやちよう 大崎免おおさきめん小船免こぶねめん相坂免あいさかめん狩原免かりはらめん高野免たかのめん西田免にしだめん米山免こめのやまめん普住免ふじゆうめん山根免やまねめん

田代たしろ村の北西に位置し、竜尾たつお川が流れる。北部は海に臨む。小船免に一五世紀末に滅亡した御厨氏の居城という御厨城跡があり、しろこしの地名が残る。江戸時代は平戸藩領で、田平筋一四ヵ村に属する。明暦二年(一六五六)の畑方帳抜書に御厨屋村のうちとして大崎免とみえ、別に御厨大崎村として大崎免・西木場にしこば免・米之山免・河内かわち免・普住免・小船免・大坂おおさか免・狩原免が記される。元禄一二年(一六九九)の平戸領分郷村帳では御厨屋村新枝村として村名がみえ、高五五石余。狩原免の馬込まごめに平戸藩の代官所が置かれた。小島こじま新田は弘化三年(一八四六)前田平次郎が干拓したもので、万延年間(一八六〇―六一)廻田まわりだ新田が開かれた(松浦市史)


大崎村
おおさきむら

[現在地名]宇ノ気町大崎

河北潟北西、内日角うちひすみ村の南に位置。集落は河北砂丘上で河北潟の縁辺に続き、村域は日本海に及ぶ。延徳三年(一四九一)九月に固定したものを再編した天文六年(一五三七)正月の金津庄金津村名別公事銭等納帳(賀茂別雷神社文書)にみえる脇名の景安名に「坊丸算用、大崎新右衛門拘」の付箋がある。天正一四年(一五八六)正月二二日の前田利家印判状写(黒津舟神社文書)に村名がみえ、前田利家から黒津舟くろつぶね権現(現内灘町の小浜神社)の再興に協力を命じられている。


大崎村
おおさきむら

[現在地名]岩井市大崎

菅生すがお沼の西に所在。菅生沼のヤトが内部に数条入込む。高崎台地たかさきだいち遺跡は菅生沼に臨む台地上に住居跡があり、弥生式の小皿の祭器・土器片・貝類が出土。「和名抄」のさしま高根たかね郷とする説があるが明確でない。「吾妻鏡」にみえる下河辺しもこうべ庄司行平の郎従鈴置平五(→矢作村は当地に住したものと思われる。当村の草分は鈴置(鈴木)・高橋・中沢・椎名・長妻・横島・田村・中村の八氏と伝えられ、それぞれに氏神と仏堂を祀り、俗に八堂八社といわれた。


大崎村
おおさきむら

[現在地名]三ヶ日町大崎

東を浜名湖、西を猪鼻いのはな湖に挟まれた大崎半島の先端部に位置し、北西は都筑つづき村。村域南端から浜名湖に浮ぶつぶて島をみる景勝の地。西端部は対岸の下尾奈しもおな村、横山よこやま(現湖西市)との境で、浜名湖の瀬戸となっている。「神鳳鈔」や延元四年(一三三九)一〇月日の「給人引付諸神領注文」にみえる伊勢神宮外宮領の「大崎御薗」は当地に比定され、伊勢神宮に雑紙九〇帖を納めていた。寛正二年(一四六一)一二月一二日に建立された大福だいふく寺不動堂の棟上に際し、「大崎」の道珍が三〇〇文を、また当地より布を奉加している(「大福寺不動堂建立記」大福寺文書)


大崎村
おおさきむら

[現在地名]豊橋市大崎町・船渡ふなと

梅田うめだ川河口の左岸に位置し、北は渥美湾に面し、東は川を隔て草間くさま村と対する。天文一〇年(一五四一)銘の八幡社棟札に「大崎郷」とあり、願主は戸田三郎右兵衛尉宣成。明治一四年(一八八一)の「大崎村誌」によると、天文年間戸田氏領、天正年間(一五七三―九二)松平康長領、慶長六年(一六〇一)中島与五郎領とある。永禄七年(一五六四)の徳川家康宛行状(古簡雑載)に「六百貫文 大崎杉山両郷」とあり、戸田主殿助に新知行分として宛行われている。


大崎村
おおさきむら

[現在地名]浦和市大崎

三室みむろ村新田の北に位置し、洪積台地沖積低地からなる。日光御成道が通り、見沼代用水(東縁)が流れる。西境をしば川が流れる。江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(田園簿・改革組合取調書など)。田園簿では田九七石余・畑一一七石余。慶安二年(一六四九)八月徳川家光から国昌こくしよう寺領として一〇石が寄進された(「徳川家光朱印状」国昌寺文書)


大崎村
おおさきむら

[現在地名]玉野市八浜町大崎はちはまちようおおさき

つちはら村の北東に位置し、北は児島こじま湾に面する。枝村に奥がある。慶長九年(一六〇四)の検地帳(慶安二年写、玉野市教育委員会蔵)によれば高五〇二石余、田九町八反余(上・中・下田各三町余)・畑屋敷三〇町余、屋敷持名請百姓は寺社とも四三、下人百姓五。寛永備前国絵図では村高四五〇石余。享保六年(一七二一)の家数一〇四・人数五九八、田畠三四町六反余、船二(備陽記)


大崎村
おおさきむら

[現在地名]田浦町田浦町

田浦湾の北方に突出た半島部の山村で、東は浜村はまむら町と赤松あかまつ村、北は波多島はたと村に接する。肥後国中寺社御家人名附には田浦村のうちに記される。田浦湾を扼する位置にあるため江戸時代には湊口番所が置かれ、佐敷さしき(現芦北町)詰の藩士(上番)一人と葦北郡筒(下番)二人が警衛に当たった。田浦手永に属した。太田おおた地区の海岸部に大正三年(一九一四)に発見された丸山まるやま古墳があり、朱に塗られた箱式石棺中に二体の遺骸が埋葬されていたという。そのほか住吉神社すみよしじんじや古墳もあるが、学術調査はなされていない。「散木奇歌集」に載る源俊頼の

<資料は省略されています>

などで知られる葦北のうつせ貝(石貝)は当村の海岸や山間部にみられる化石であり、「国誌」に「空貝ト云、里俗ビナ石ト云、田浦御番所遠見ノ近辺里俗タテ岩浜ト云又高尾鉢窪山ニアリ、(中略)田浦ヨリ出ル石貝ハ形寄居虫ごうなノ如ク、肉ト殻ト色カハリ、生タル貝ニ似タリ、山丘ヨリ出ルハ色白ク、海汀ニアルハ色黒シ」とあり、今も大崎地区の山中からたまにみいだされる。


大崎村
おおざきむら

[現在地名]小郡市大崎

宝満ほうまん川下流域の右岸に位置し、東は同川を挟んで稲吉いなよし村と接する。南部に中三ちゆうさんなかつぼなどの条里制の遺称地名と思われる字名がある。天文三年(一五三四)一二月二四日の大友義鑑袖判知行目録(草野文書/久留米市史7 資料編古代・中世)では「大崎」の九町が草野新左衛門尉の知行とされている。文禄四年(一五九五)一二月一日の小早川秀俊充行知行方目録(萩藩閥閲録)では御原みはら郡「大さき村」内の四〇〇石余など二千一〇〇石が星野実信の領知となっている。本高は五七六石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高六六〇石・役高八一四石。


大崎村
おおさきむら

[現在地名]羽茂町大崎

飯岡いいおか村の北にあたる。羽茂川が右に曲流する谷底平地に中心集落大崎の民家が散在し、西の山間に上山田かみやまだ大草おおくさ、東の山間に犬落いぬおとし絞張しめばりなどの小集落がある。北は滝平たきだいら村。大崎集落の羽茂川左岸には大崎城跡があり、羽茂本間氏(羽茂殿)の家臣野沢藤右衛門の居城と伝える。天正一七年(一五八九)に羽茂殿が滅亡すると、野沢氏は一族を名分けして帰農させたといわれ、葛原・中川・藤井・大場・本間・渡辺姓がその一族という。

近世以降度重なる水害で文書類はほとんど残存しないが、元禄七年(一六九四)の検地帳(大崎区有)では田三一町三反余・畑五一町二反余。滝平村、下川茂しもかわも(現赤泊村)の入会林・松林・雑木山が合計七一ヵ所、竹林三ヵ所、山役五五匁・漆役一七二本を納める。


大崎村
おおさきむら

[現在地名]藤岡町大前おおまえ

西・南西はたたら(只木沼)に臨み、東部・南部とも低地。東は飯塚いいづか村、西は只木ただき村。村名は延喜式内社大前おおさき神社にちなむとされ、大前村とも記される。元和八年(一六二二)下総古河藩永井氏による検地を受け、村高一七八石余・高請百姓二五軒(藤岡町史)。慶安郷帳では大崎村とみえ、田六五石余・畑一四〇石余、古河藩領。その後上野館林藩領・幕府領などを経て、宝暦一〇年(一七六〇)下総佐倉藩領、天明七年(一七八七)上知され、寛政一〇年(一七九八)佐倉藩領に復した(紀氏雑録・紀氏雑録続集)


大崎村
おおさきむら

[現在地名]天王町大崎

八郎潟の南岸に位置し、天王砂丘の最北端を占める。北西に羽立はだち村、西に江川えがわ村、南に二田ふただ村がある。

正保四年(一六四七)の出羽国秋田郡小鹿島之内大崎村御検地帳(天王町誌)に「大崎村、田畑屋敷合七丁四反二畝一歩」とあり、寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳には当高九二石一斗五升一合、うち給分九二石一斗二升一合とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「古来天王村支郷、延宝年中より黒印賜る。家二十五軒」とあり、延宝(一六七三―八一)の頃独立村となったと推定される。文化一二年(一八一五)の「秋田風土記」には高七七石、家数三〇軒とある。


大崎村
おおさきむら

中世は金田かねだ保のうち。大崎の地名は残らないが、「房総志料」に記される坂戸市場さかどいちば(現袖ケ浦市)の坂戸明神の氏子村一二ヵ村のうちに「大崎」がみえる。一二ヵ村は坂戸市場・牛袋うしぶくろ万石まんごく高柳たかやなぎといった小櫃おびつ川河口部の狭い地域に集中しているから、大崎もこの地域にあったと考えられる。文和三年(一三五四)一一月二四日の二階堂成藤奉書(明王院文書)に「金田郷内万石大崎村」とみえ、鎌倉府から地頭代に対し、上総の国衙職を保持する鎌倉明王みようおう院の鎮守春日社に上納する正税を究済するよう命じている。応永三年(一三九六)六月五日、伊勢貞信の所領であった「大崎村」は相博の結果鎌倉円覚寺の所領となった(応永七年七月二五日「円覚寺新文書目録」円覚寺文書)


大崎村
おおざきむら

[現在地名]岡山市大崎

和井元わいもと村の西にあり、北部は山地をなす。慶長六年(一六〇一)木下家定に大崎村三八〇石余が与えられた(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)。寛永備中国絵図も同高で足守藩領。正保郷帳には「日損所中」とある。幕末まで同藩領。貞享二年(一六八五)の高三七八石余、家数四八・人数一八五(「賀陽郡・上房郡寺社改帳」総社市史編さん室蔵)。天保八年(一八三七)には高三八二石余・反別二五町余、家数四五・人数一六七、牛七・馬一(「賀陽郡御道筋諸品書上帳」足守木下家文書)


大崎村
おおさきむら

[現在地名]水海道市大崎町

小貝こかい川西岸に所在。西北は十花じゆつか村。東に福岡ふくおか堰がある。寛永(一六二四―四四)以降の十花村の開発を享保一八年(一七三三)に記録した十花新田開発由来写(片野家文書)に「大崎広大寺起立、極山和尚浪人にて参候(中略)十家村大崎境に取立候」とみえ、広大寺縁起(広大寺蔵)にも「寛永元年三縁山増上寺法主了学大和尚を請じて開山す」とあり、寛永元年頃村も開かれたと考えられる。寛文六年(一六六六)に幕府代官南条勘兵衛の検地があった(杉山始文書)


大崎村
おおさきむら

[現在地名]加茂町大崎

東は猪尾いのお村、西は延野のぶの村、北は岩倉いわくら村。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高二〇七石余、寛文四年(一六六四)の本田高一五八石余・新田高五斗余。「雲陽大数録」では高一九〇石。寛政一二年(一八〇〇)の人数一七一(「大原郡宗門改」加茂町誌)。従来から岩倉村の草山に当村・猪尾村が入会山として入っており場所も決まっていたが、三村の取決めは時代とともに崩れ、喧嘩口論が絶えなかった。享保五年(一七二〇)証文を作ったが、寛延二年(一七四九)・明和七年(一七七〇)と争論が起こった(「大崎猪野山論願書」加茂町史考)


大崎村
おおさきむら

[現在地名]氷上町大崎

東縁を黒井くろい川が流れ、東は同川を隔てて北野きたの村。領主の変遷は同村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高一六二石余・畠高九石余、林あり、日損少しあり。柏原藩領。元禄郷帳では高二〇四石余。「丹波志」によると家数三〇。産土神は字麻畑あさばたけの山王社(現日吉神社)。真宗大谷派仏現ぶつげん寺は寺伝などによればもと錦ノ院と称する真言宗寺院であったが、文明三年(一四七一)本願寺蓮如が小浜おばま(現福井県小浜市)から摂津に向かう途中留錫し、住持が檀家三八〇余戸ともどもに改宗した。


大崎村
おおさきむら

[現在地名]久慈市夏井町なついちよう 大崎

閉伊口へいのくち村の南西、夏井川下流南岸に位置。浜街道が通る。立成たてなりに大崎氏の居館跡といわれる大崎館跡がある。大崎氏は盛岡藩初代藩主南部信直から知行地として三〇〇石を与えられたと伝える。正保国絵図に村名がみえ、高一〇二石余。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳では田一八二石余・畑一九石余。天保五年(一八三四)の南部領高辻帳による〆高は田方二六八石余・畑方二七石余。


大崎村
おおさきむら

[現在地名]西山町大崎

北と東は大津おおづ村、南は甲田こうだ村と峰で境する。西は北国街道が日本海沿岸を走る。東の山地からは流長一・五キロの笹子ささこ川が村中を流れ日本海に注ぐ。当地海岸付近は「義経記」巻七に「しらさきを漕ぎ過ぎて、寺お泊に船を著け」とある「しらさき」と考えられている。


大崎村
おおさきむら

[現在地名]豊川市大崎町

六角ろつかく村の西南にあたる。「豊川村誌」には六角村とともに千両ちぎり村の出郷かとしている。また「蚕犬ノ尾ヲ埋メタルヲ以テ尾崎村ト称セシヲ、中古ヨリ大崎村ト書セシヨシ」と記している。


大崎村
おおさきむら

[現在地名]新発田市大崎

八幡やわた村の南にあり、北と南を丘陵に挟まれ、村域は東西に細長い。新発田藩領で、慶長三年(一五九八)頃の御領内高付帳(新発田市史資料)に村名がみえ高四〇石七升。同四年の御判物之写(北方文化博物館蔵)に、「当秋年貢定之事」として「五斗五升 大崎」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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