日本歴史地名大系 「野瀬村」の解説 野瀬村のせむら 兵庫県:神戸市北区野瀬村[現在地名]北区淡河町野瀬(おうごちようのせ)美嚢(みなぎ)郡に属する。淡河川支流の屏風(びようぶ)川流域の山間に位置し、西は中山(なかやま)村、東は摂津国有馬(ありま)郡西畑(にしばた)村・屏風村。有馬街道が通る。文和二年(一三五三)二月一日の平政氏田畠寄進状(石峯寺文書)によれば、淡河庄「野世村」内水田一段(在所南畑樋爪)と畠一段(北畑安保左衛門尉跡地)が石峯(しやくぶ)寺大般若院再興料足として寄進されている。微考録(同文書)によると、同寺金堂に野瀬村として神田(こうだ)村中などとともに金灯籠二個を、当村二郎兵衛妻が幡二旒を寄進している。慶長国絵図に「野瀬村」「野瀬」とみえる。 野瀬村のせむら 滋賀県:東浅井郡浅井町野瀬村[現在地名]浅井町野瀬郷野(ごうの)村の北に位置。東部の曲谷(まがたに)村(現坂田郡伊吹町)境の天吉寺(てんきちじ)山(野瀬村山・黒髪山とも)に発する天吉寺川が集落内を南西流して草野(くさの)川に合流する。享禄元年(一五二八)一二月日の大聖寺仏田帳(東浅井郡志)に「ノせ」とみえる。寛永石高帳に村名がみえ、高二四八石余。領主の変遷は木(き)ノ尾(お)村に同じ。天保七年(一八三六)家数二五五(野瀬村差出帳)。文政一一年(一八二八)中山道柏原(かしわばら)宿(現坂田郡山東町)の加助郷となるが、嘉永二年(一八四九)以後一五ヵ年間休役(東浅井郡志)。 野瀬村のせむら 兵庫県:相生市野瀬村[現在地名]相生市野瀬相生(おお)村の南東、那波(なば)浦(現相生湾)東岸に位置する。慶長国絵図に揖西(いつさい)郡のうちに野瀬村とみえる。正保郷帳では田方八七石余・畠方六四石余、旱損所とある。領主の変遷は慶長五年(一六〇〇)池田輝政(姫路藩)領、元和三年(一六一七)龍野藩領、明暦四年(一六五八)藩主京極高知が讃岐丸亀(まるがめ)(現香川県丸亀市)に移封されたのに伴い、一部が丸亀藩領になり幕末に至った。 野瀬村のせむら 滋賀県:彦根市旧犬上郡地区野瀬村[現在地名]彦根市野瀬町西今(にしいま)村の西に位置。慶長高辻帳に村名がみえ、高五四二石余。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で五ツ五分。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報