野谷村(読み)のたにむら

日本歴史地名大系 「野谷村」の解説

野谷村
のたにむら

[現在地名]徳地町大字野谷

佐波川の上流域、高羽たかばヶ岳の東に位置する山地村。北は地福じふく(現阿武郡阿東町)、西は生雲いくも(現阿東町)仁保上郷にほかみごう(現山口市)、南は船路ふなじ、東は柚木ゆのきの各村と接する。村内を白井しらい川・四古谷しこたに川・しもはら川・野谷川が流れ、佐波川に合流する。集落は野谷川・佐波川沿いに点在する。萩藩領で徳地宰判に属した。

近世初期には下徳地しもとくじの一部であったと思われる。「地下上申」(享保一四年分)で独立した一村として記され、総石高一千八八石余(田方八三九石余、畠方二二八石余)、家数二四一、人数一千二。村内の小村として野谷・大原おおはら白井横山よこやま北祖ほくそ・いつりは・佐々滝ささがたき下野谷しものたに向大原むかいおおはら祖父そぶ南谷みなみだに片山かたやま中釣山なかつりやま中村なかむら下釣山しもつりやま上野谷かみのだにをあげる。

野谷村
のたにむら

[現在地名]錦町大字野谷

広瀬ひろせ村の東南に位置する山村。近世初期に広瀬村から分離、独立村となった。萩藩領で前山代宰判に属する。

村名の初見は「地下上申」で、同書は小名二五をあげ、それをささたに原垣内はらがいち三歩一さんぶいち・草佐畑の四組に分け、それぞれに畔頭を置くが、「注進案」では「地下上申」が広瀬東分とする有仏谷うぶつだにが入るなど、村域に変化がある。

村高は「地下上申」に高六九九石五斗余、うち田三六七石二斗余、畠三三二石三斗余とある。「注進案」は高一千七二石四斗余とあり増加が目立つが、村域の変化と関係があるのかもしれない。戸口は「地下上申」で一〇三軒、三四〇人、「注進案」では五割増となる。

野谷村
のだにむら

[現在地名]備前市野谷

山陽道沿い三石みついし村の北西にある。慶長一八年(一六一三)和気郡御勘定帳に村名がみえ、物成八八石余・夫米五石余。寛永五年(一六二八)の検地では朱印高一六八石余のほか改出高五石余(貞享元年「和気郡高目録」池田家文庫)。享保六年(一七二一)には田畠一二町九反余、家数四一・人数二二六、池一ヵ所、野谷新田があった(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高二六〇石余で蔵入。二口高一九七石余、残高一七九石余、うち田方八町余・一二九石余、物成七〇石余、畑方四町余・五〇石余、物成二三石余。

野谷村
のだにむら

[現在地名]白川村野谷

北流するしよう川沿いにあり、白川街道が南隣保木脇ほきわき村から庄川支流のあら谷を橋で渡る。街道は庄川沿いに大牧おおまき村・鳩谷はとがや村への道と、峠越え大窪おおくぼ村への道とに分れる。元禄飛騨国検地反歩帳に村名がみえ、高二石余、田一反余・畑七反余。「飛騨国中案内」によれば免は二割九分三厘、家数三、うち道場一・門屋二。「斐太後風土記」の高四石余、焼畑五反、享保一二年(一七二七)高入れの焼畑一町。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android