日本歴史地名大系 「広瀬村」の解説
広瀬村
ひろせむら
〔中世〕
当地は山香郷の別名として平安時代末に開かれたと推測される。山香郷地頭職系図(志手文書)には大神並貞が「広瀬地頭」と記される。山香郷と同様に郷司大神氏の開発によって成立した村であろう。鎌倉時代に入ると新たに地頭が任命され、大神一族の支配は排除されたようである。元久二年(一二〇五、正中二年の誤りか)二月二八日の豊後国国宣写(工藤勲文書)によると、初期の地頭「宮内少輔治時」の後を受けて遠江の御家人内田工藤致春が入部している。豊後国弘安図田帳には「広瀬六町六段大 遠江国御家人内田工藤三致清跡、三郎致時相続」とある。内田工藤氏の名字の地は現静岡県
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
府中町の西、
広瀬村
ひろせむら
- 千葉県:館山市
- 広瀬村
〔中世〕
正治二年(一二〇〇)二月二八日の吉田経房処分状案(勧修寺家文書)に「郡房庄内広瀬郷」とみえ、五辻斎院(鳥羽天皇皇女頌子内親王)が供僧以下の衣服料および修理用途料として同郷を京都上賀茂社の経蔵に施入している。吉田家が得分をもっていたらしいが、それは領家職と推定され、五辻斎院は本家職であったのだろう。経房は地頭が直接重政に用途を納入したため決算ができないとして、用途を優先するよう定めている。弘安三年(一二八〇)五月五日の亀山上皇院宣(富田氏所蔵文書)でも、広瀬郷は群房庄の本家惣領と区別した扱いとなっている。
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に広瀬とみえ、高三千三〇六石余、田丸氏の知行地。
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
玖珂郡の西北端、西は
村名は「大永ノ記録」(「山代温故録」所収)に「広瀬郷 刀禰広瀬主計介宰判」とみえる。
近世、萩藩前山代宰判の中心地として代官所(勘場)が置かれ、勘場役人が勤務していた。勘場は、山代宰判が奥と前に二分された延享四年(一七四七)に設置。安永五年(一七七六)合併されたのに伴い廃止されたが、天保一三年(一八四二)再び分割。隅四郎右衛門宅を借りて勘場とした。
村高は慶長一五年(一六一〇)の検地帳で、高二千九〇三石余、うち田七三町四反余で高一千三九六石余、畠二〇二町一反余で高七七〇石余、屋敷二七七軒、市屋敷一七軒、小物成高五七六石余とある。
広瀬村
ひろせむら
- 京都府:綾部市
- 広瀬村
村の北方、
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
手取川左岸、同川と支流
広瀬村
ひろせむら
- 長野県:長野市
- 広瀬村
東は
「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に「院御領弘瀬庄」とあるのにあたる。中世は天文二三年(一五五四)の落合領桜庄七郷之造宮天文廿三
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
- 鳥取県:倉吉市
- 広瀬村
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
- 大分県:杵築市
- 広瀬村
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
- 三重県:松阪市
- 広瀬村
文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「飯高郡ノ内広瀬村」と記されている。近世は和歌山藩松坂領。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数七七、人数三二九。
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
- 熊本県:本渡市
- 広瀬村
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
- 熊本県:菊池市
- 広瀬村
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
- 宮崎県:都城市
- 広瀬村
現
広瀬村
ひろせむら
- 福岡県:豊前市
- 広瀬村
広瀬村
ひろせむら
広瀬村
ひろせむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報