金子村(読み)かねこむら

日本歴史地名大系 「金子村」の解説

金子村
かねこむら

[現在地名]調布市西つつじヶ丘にしつつじがおか一―四丁目・菊野台きくのだい一―三丁目・柴崎しばさき二丁目・佐須町さずまち三丁目・国領町こくりようちよう二―三丁目・同八丁目

入間いりま村の西にあり、西の柴崎村から川が南東流する。「風土記稿」はこの地は金子十郎家忠の住居の地であったという伝承を記し、村内に館跡がみえないが、深大寺じんだいじ村の難波田弾正の古城跡が居所かなどとしている。しかし武蔵七党の村山党金子氏の本拠地は入間いるま金子郷(現埼玉県入間市)であり、また深大寺城が金子氏と関係のないことは明らかである。しかし近隣の上仙川かみせんがわ(現三鷹市)島屋敷しまやしきは金子時光(家忠の曾孫)の館跡という伝承があるので、当村付近に金子氏の一族が住んだ可能性は考えられよう。田園簿に金子村とみえ、田一〇六石余・畑一一六石余。江戸時代を通じ幕府領(旧高旧領取調帳など)。延宝六年(一六七八)の検地帳写(金子家文書)が田方一冊・畑方二冊・屋敷帳一冊あり、田一二町六反余・畑屋敷四〇町五反余。ほかに屋敷付除藪検地帳・野銭山検地帳・新田検地帳・金龍寺領検地帳が各一冊(いずれも同文書)が残る。中央を甲州道中が通り、文化二年(一八〇五)には総軒数八三軒のうち四〇軒が街道の両側にあった(「御分間御用ニ附書上帳控」同文書)。往還途中には深大寺村飛地があった(宿村大概帳)

金子村
かねこむら

[現在地名]大井町金子

東は山田やまだ村、西は金手かなで村、南は上大井かみおおい村、北は神山こうやま村・松田惣領まつだそうりよう(現松田町)と接し、西南を小田原道が通る。

弘安六年(一二八三)七月二三日の将軍源惟康家政所安堵下文(県史二)に「可令早前隠岐守藤原行景領知相模国大井庄内金子郷信濃次郎左衛門尉行氏跡事」とあり、かつて二階堂行氏が知行していた金子郷をその子行景が領知すべきことを令している。なお鎌倉末と推定される二階堂氏の年欠所領目録(県史一)に「大井庄内金子郷御下文」がみえる。鎌倉末から室町初めと思われる天龍寺寺領目録(県史二・三)に「成田庄付金子村」とみえ、小田原衆所領役帳に安藤源左衛門「五拾七貫八百拾七文 西郡金子内」、西原善右衛門「三百八拾壱貫六百文 金子郷寄子給」と記す。永禄九年(一五六六)二月二一日と四月二〇日の北条綱成判物(県史三)に「金子之郷之内西明寺領五貫六百五十文之所」「於金子、為神田、三貫文之分」とあり、村内最明さいみよう寺の寺領と神社修理のための神田があった。

金子村
かねこむら

[現在地名]新居浜市磯浦いそうら町・一宮いつく町一―二丁目・江口えぐち町・王子おうじ町・北新町きたしんまち久保田くぼた町一―三丁目・河内こうち町・新田しんでん町一―三丁目・惣開そうびらき町・高木たかぎ町・滝の宮たきのみや町・田所たどころ町・中須賀なかすが町一丁目・西の土居にしのどい町一―二丁目・星越ほしごえ町・前田まえだ町・政枝まさえだ町一―二丁目・宮西みやにし

新居浜平野の中央を北流する尻無しりなし川を東の境界とし、西は金子かねこ山山麓に至り、北は金子山の北麓新居浜浦との村境に至り、南は現国鉄予讃本線をもって境界とする平地に位置する。

弘安五年(一二八二)七月一六日付の将軍家政所下文(金子家美氏蔵)によれば、武蔵国入間郡金子村に本拠をもつ金子頼広が新居郷地頭職を安堵されている。

金子村
かなごむら

[現在地名]上月町才金さいかね

西本郷にしほんごう村の北、田和たわ村の西に位置し、桜山さくらやま川沿いに金子・舟戸ふなんど(船堂)の二集落がある。北の桜山村に通じる道がある。江戸時代の領主の変遷は寛永一七年(一六四〇)までは上月村に、以後は平尾ひらお村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田方一三〇石余・畠方五一石余、旱損所の注記がある。元文四年(一七三九)の旗本松井氏平福領一揆時には家数二八(うち水呑四)であったが、全体が窮乏状態で、住人が異形姿で平福ひらふく(現佐用町)へ押寄せた。一揆収束後当村の三名が処罰され、村に鳥目一貫文の過料が科された(田住家文書)。天保七年(一八三六)・同八年の飢饉および桜山銅山の鉱害被害により窮乏が甚しく、年貢納入のために家財をことごとく取立てられ、多くの百姓が離散し、村中すべて荒果てていたという(「太寛一代記」福円寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報