日本歴史地名大系 「金毘羅村」の解説
金毘羅村
こんぴらむら
琴平山(象頭山)の東麓、
その後も移住者が相次いで、元禄一六年(一七〇三)に岩佐清信が描いた「象頭山祭礼図屏風」にみえるような旅館や商店が立並ぶ門前町となった。なお寛文八年(一六六八)大工棟梁平八、延宝三年(一六七五)瓦師久兵衛、同四年張物師大津屋権兵衛、宝暦一〇年(一七六〇)素麺師かも屋甚右衛門と職人の移住が続き、寛政一〇年(一七九八)阿波国小松島から西之家が移住して酒造業を始めた。慶安元年(一六四八)に金毘羅大権現の参道が改修され参詣客が増加し、他国から金毘羅に移り住む者も多くなった。門前町を含めた社領の人数がしだいに増え、享保六年(一七二一)二千四六五人(男一千三一九・女一千一四六)。寛延三年(一七五〇)二千五二四人、うち出家一八・金光院家来四一三(男二三四・女一七九)・山伏三・座頭一・道心二・尼一。天保五年(一八三四)五千四六六人となっている(社領人数書上帳)。金毘羅の町役所では、移住者の寺送り証文の多少の不備はとがめず、金毘羅の門前町が急速に発展した裏には、こうした脱法手段も講じられていた。
金毘羅の町方と地方の政治は多聞院が責任者で、町役所で行っていた。町役所には、町方
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報