金谷城跡(読み)かなやじようあと

日本歴史地名大系 「金谷城跡」の解説

金谷城跡
かなやじようあと

[現在地名]富津市金谷

真里谷武田氏によって築城されたと考えられる中世の城跡。標高七〇―八〇メートルの丘陵にあり、北・西は東京湾に臨み、東は井戸谷いどやつ側で画されている。小地名要害ようがいが残るとおり天然の要害であり、なにより三浦半島が眺望できることから航行する船の発見・監視に適した好条件の位置にあり、海城とみなされるのも当然である。西側の海岸との比高は最高一〇八メートルに及ぶ断崖で、海岸伝いの侵入はやや困難とされる。文明一二年(一四八〇)武田(真里谷)信興は真里谷まりやつ(現木更津市)城主になったとされ、安房里見氏に備えて峰上みねがみ城を築城し、併せて支城として造海つくろうみ(百首城)や当城を築いたという。初代城主は信興の弟信武とされ、同一八年里見成義に攻め落されたといわれることから、この間の築城となる。なお造海城主を真里谷信隆(信興の曾孫)とし、当城にはその家臣佐久間藤内が守備していたとする説がある(君津郡誌)

金谷城跡
かなやじようあと

[現在地名]豊田市金谷町一丁目

金谷台(樹木台)上の旧字外藪そとやぶにある。ころも城跡ともいう。東西三〇〇メートル・南北七〇〇メートルの長方形の館城と推定されるが、西側の土塁跡と本丸付近の濠跡だけが残る。建長年中(一二四九―五六)から弘安九年(一二八六)の間に、高橋たかはし庄挙母郷に入部した中条氏の居館跡とされている。延慶年中(一三〇八―一一)に景長により拡張工事が行われたとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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