針村(読み)はりむら

日本歴史地名大系 「針村」の解説

針村
はりむら

[現在地名]板倉町針

大熊おおくま川右岸にあり、山間部から平野部への出口に位置する。東は国川こくがわ村、南は熊川くまがわ村。年月日未詳の高梨氏所領注文(高梨文書)に「針村」とみえ、高梨氏の本領一七ヵ所のうちの一ヵ所であった。正保国絵図に村名がみえ、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に高八六七石九斗余とあり、「此所壱ケ月ニ六日宛市立」とある。天和三年(一六八三)検地帳(針区有文書)によれば高七一九石余、うち山高五石二斗八升、田四六町六反余・畑一二町九反余、家数九四。天和元年から元禄一四年(一七〇一)まで幕府領、同一五年から元文四年(一七三九)まで高柳藩領、同五年幕府領、寛保元年(一七四一)白河藩預所、同二年から明和四年(一七六七)、同七年から天明七年(一七八七)、寛政六年(一七九四)から文政二年(一八一九)幕府領、この間と文政三年以降は高田藩預所(「村明細帳」同文書)


針村
はりむら

[現在地名]甲西町針・中央ちゆうおう

平松ひらまつ村の東にあり、北を野洲やす川が西流し、南は山地。村の中ほどを東海道が貫通し、集落はこれに沿って街村をなす。平松村との境を家棟やなむね川が流れる。甲賀一郡を拝領したとする守護六角氏は針村を京都南禅寺僧在中に寄進したが、浅堀頼勝はこれを押領と訴え、永享四年(一四三二)八月一五日認められている(御前落居記録)。天正一一年(一五八三)八月の浅野長吉知行目録(浅野家文書)に「はりむら」六三八石、同一九年四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に「針」七二四石余とみえる。



はりすりむら

[現在地名]筑紫野市針摺

むらさき村の南東、南東流する宝満ほうまん川支流山口やまぐち川左岸にある。北西から南東へ日田街道が通り、針摺町が立てられていた(慶長国絵図)。村名は針磨とも記され、その由来は天拝てんぱい山から下りてきた菅原道真が斧を石で磨いて針にする翁に出会ったことによるという。この針摺石は北部林中に残っていたという(続風土記)。「歴代鎮西要略」によれば、文和二年(一三五三)二月二日、九州探題一色直氏とその父範氏の北朝方は懐良親王を奉ずる菊池武光と少弐頼尚の連合軍に「筑前国針磨」で戦って敗れ、肥前綾部あやべ(現佐賀県中原町)へ撤退したという。


針村
はりむら

[現在地名]村大字針

白石しらいし村の北方に位置する。針は墾の意。「春日社記録」中臣祐定記の嘉禎二年(一二三六)九月一七日条に「寄進 春日御社庄并散在田地等事」として「針庄」とあり、「源平盛衰記」に「当国に針庄とて西金堂の御油の料所あり」とみえる。「山辺郡誌」には「古ハ古苑堂村ト称シ一村タリシガ中古ニ至リ二村ニ分レ其南ニアルヲ針村ト云ヒ其東ニアルヲ東針村ト云フト(中略)一ニ治利・波利ト書ク」と記す。

慶長郷帳の村高六五三・三三石。慶長期(一五九六―一六一五)から幕府領(代官間宮三郎右衛門)


針村
すりはりむら

[現在地名]彦根市中山町なかやまちよう

中山村の枝郷で中山道の街道集落。分間延絵図によると甲田こうた村から摺針峠を上ってきた中山道両側に家並があり、右手に立場が描かれている。集落の東端には一里塚がある。元禄八年大洞弁天寄進帳によると人数一三三、うち寺社方三。名物に餅と金石類を磨くと光沢がよく出る磨石がある(木間攫)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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