長田西郷・長田市庭
ながたにしごう・ながたいちば
長田西郷は現松江市の北東部、朝酌川(「出雲国風土記」にみえる水草川)下流部にあった国衙領。西長田郷などともいい、現西川津町・菅田町・西尾町付近に比定される。長田市庭は西川津町の朝酌川下流域、通称がらがら橋周辺にあったと推定される中世の市場。
〔長田西郷〕
文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳に「長田西郷四十七丁五反長田四郎兵衛尉」とみえる。成立の経過は長田東郷と同じ。前記の長田四郎兵衛尉(昌元)の死去に伴い永仁七年(一二九九)二月一一日に息子の長田余一昌重(法名昌遍)は、遺領として長田西村のうちの市成村(現在の西川津町に市成の通称が残る)・菅田村・市庭村・芝尾村(柴尾村)の田畠在家を安堵された(「鎌倉将軍家下知状」飯野八幡宮文書)。昌重は出雲国衙の官人として漆治郷(現斐川町)の佃二町余を刈取り、また領家政所を追捕したと万里小路宣房家の雑掌教円から訴えられ、嘉元元年(一三〇三)に「長田郷一方地頭職」を没収された。そのため当郷は一時長田東郷の地頭と推定される長田雅綱の給地とされたが、昌重の子長田次郎貞昌の訴えにより元応二年(一三二〇)三月二日に還補され(「鎌倉将軍家下知状」同文書)、鎌倉末期まで長田氏がこれを知行した。
鎌倉幕府の滅亡とともに没落したと推定される長田氏に代わって南北朝期・室町期には複数の領主に分割して知行されたようである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 