長野氏城跡(読み)ながのしじようあと

日本歴史地名大系 「長野氏城跡」の解説

長野氏城跡
ながのしじようあと

[現在地名]美里村桂畑 荒井・三船ヶ谷、北長野 三守田・前田・板谷・打越

伊勢と伊賀の国境をなす布引ぬのびき山地北部の山並の一つ、標高五四〇メートルの山地尾根に築かれた南北朝期の山城。城跡の周囲は急斜面となり、南東麓の桂畑かつらはた平地との比高は約三六〇メートルで、きわめて眺望のよい地にある。北側の展望は標高八一九・三メートルの経ヶ峰にさえぎられるが、東方眼下には伊勢湾と、南方には南伊勢の平地と山々を遠望することができる。北長野きたながのに所在する東の城跡・中の城跡・西の城跡とともに長野氏城跡として国指定史跡築城の時期は明らかでないが、長野氏は「梅松論」建武三年(一三三六)八月の竹田たけだ縄手(現京都市)の合戦の項に、足利尊氏方の武士として「伊勢国の住人長野工藤三郎左衛門尉」の名がみえ、「太平記」延文五年(一三六〇)八月の項の近江の葛木山の合戦では、佐々木六角氏頼に対する石塔頼房・仁木三郎の軍勢に「長野ガ蠅払一揆」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「長野氏城跡」の解説

ながのししろあと【長野氏城跡】


三重県津市美里町にある城跡。指定名称は「長野氏城跡 長野城跡(ながのじょうあと) 東の城跡(ひがしのじょうあと) 中の城跡(なかのじょうあと) 西の城跡(にしのじょうあと)」。1239年(延応1)、藤原氏を祖とし、室町時代初期に現在の安芸郡と津市にあたる安濃(あの)・奄芸(あんき)郡を支配した国人領主である工藤祐長(すけなが)が、現在の美里町長野に移り住み、長野氏を称したことが起源である。標高540mの眺めのよい山頂にある長野城は、20m×40mの1段高い台地にあり、まわりを階段状の平坦地が取り巻き、堅固な要害となっていた。16代続いたが、1576年(天正4)に織田信長の伊勢侵攻によって滅亡した。現在、曲輪(くるわ)には土塁があり、堀切りなどが残っていて、長野城と長野川をはさんだ東側丘陵にある東の城、中の城、西の城の3城とともに、1982年(昭和57)に国の史跡に指定された。JR紀勢本線ほか津駅から三重交通バス「長野」下車、徒歩約1時間30分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報