日本の城がわかる事典 「長野城」の解説 ながのじょう【長野城】 三重県津市(旧安芸郡美里村)にあった山城(やまじろ)。国指定史跡。南北朝時代から戦国時代にかけて、旧安濃郡・奄芸郡(今日の津市から鈴鹿市にかけての一帯)に勢力をふるった長野氏(工藤長野氏)の居城。標高540m・比高360mの峻険な山上に築かれ、山頂付近に堀切と土塁に囲まれた本郭が、長野小学校の北側の標高230m付近の尾根に東の城・中の城・西の城が築かれ、各郭の周囲には、さらに階段状の腰曲輪(こしぐるわ)が設けられていた。長野城は、これら東の城、中の城、西の城の城跡とともに「長野氏城跡」として国の史跡に指定された。鎌倉時代に、工藤祐政(伊豆国の武将・工藤祐経三男)が伊勢平氏の残党の討伐のために、安濃・奄芸の2郡の地頭として長野とよばれたこの地に入って長野氏を名乗り、その子の祐藤が1274年(文永11)に長野城を築いたと伝えられている。この家系は、全国の長野氏と区別するため、工藤長野氏とよばれている。工藤長野氏は以来、この城を本拠とし、南北朝時代には北朝に属した。このため、長野城は1346年(貞和2・正平1)に、南朝方の北畠氏に攻められて落城したが、1352年(文和1・正平7)に再び工藤氏が入城したとされる。1360年(延文5)には、畠山国清らとの抗争に敗れて京都を脱出した伊勢守護の仁木義長が同城に逃れ、追討軍の攻囲に2年以上籠城を続けたことが『太平記』の延文5年の記録に登場する。これが、この城に関する文献記録の初出である。長野氏は北畠氏と長年抗争を続けてきたが、1558年(永禄1)に長野氏が北畠具教の子の具藤を養子(嫡子)に迎えることで和解した。しかし、間もなく、尾張の織田信長の攻勢が活発になり、1569年(永禄12)、長野氏は織田方についた分家の細野氏に攻められ、信長が伊勢に侵攻すると、長野氏は信長の弟・織田信包を長野氏の養子とすることで和睦。信包は長野信良を名乗り、長野氏の後継者となった。信包は1570年(元亀1)に上野城(伊賀市)を居城とし、それにともなって長野城を廃城とした。現在、城跡には郭・堀切・土塁などの遺構が残っており、山頂には城址碑が建っている。近鉄名古屋線津駅からタクシーで約45分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報