間人皇女(読み)はしひとのひめみこ

改訂新版 世界大百科事典 「間人皇女」の意味・わかりやすい解説

間人皇女 (はしひとのひめみこ)
生没年:?-665(天智4)

孝徳天皇皇后。父は舒明天皇,母は皇極天皇で,中大兄皇子天智天皇)や大海人皇子天武天皇)の妹にあたる。645年(大化1)皇后となり,遷都によって叔父にあたる孝徳天皇とともに難波に赴くが,653年(白雉4)皇女をめぐってともいわれる天皇と中大兄との不和により,中大兄らが倭京に戻るとき,天皇に従わず,兄や母とともに飛鳥河辺行宮に移った。天皇はこれを恨み皇后に歌を贈ったというが,翌年の天皇の没時に,兄や母とともに再び難波に赴いている。皇女の没時には天智天皇は330人の出家を許して供養し,667年には母とともに小市岡上陵に合葬した。
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朝日日本歴史人物事典 「間人皇女」の解説

間人皇女

没年:天智4.2.25(665.3.16)
生年:生年不詳
7世紀の舒明天皇と皇后宝皇女(のちの皇極斉明天皇)の皇女で,孝徳天皇の皇后。間人大后ともいう。同母の兄は天智天皇,弟に天武天皇がいる。大化1(645)年7月に立后記事がみえる。白雉4(653)年,天皇が皇太子中大兄皇子(天智)と難波宮から倭故京への遷都を巡って対立したとき,皇后は母皇極や弟大海人皇子(天武)らと共に中大兄に従って倭へ移ったために,天皇はこれを恨んで,「鉗着け吾飼ふ駒は引出せず吾飼ふ駒を人見つらむか」の歌を送った。翌年10月,皇后は皇極,中大兄,大海人らと臨終の天皇を難波宮に見舞っている。天智4(665)年3月天智天皇は亡くなった皇后のために,330人の度者を許した。6年2月皇后は母の斉明天皇と共に小市岡上陵に合葬された。天智称制の長期化の理由を,当時タブーとされていた同母兄妹(間人皇女)との恋愛関係に求める説がある。

(梅村恵子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「間人皇女」の解説

間人皇女 はしひとのおうじょ

?-665 飛鳥(あすか)時代,孝徳天皇の皇后。
舒明(じょめい)天皇・皇極天皇の皇女。天武天皇の姉。大化(たいか)元年(645)叔父孝徳天皇の皇后となる。白雉(はくち)4年天皇と兄の中大兄(なかおおえの)皇子(天智(てんじ)天皇)が飛鳥遷都をめぐって対立すると,天皇を難波(なにわ)宮にのこし,兄や母にしたがった。子はなかった。天智天皇4年2月25日死去。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の間人皇女の言及

【穴穂部間人皇女】より

…欽明天皇の皇女。埿部(はつかしべ)穴穂部皇女,法隆寺金堂釈迦三尊像銘では鬼前太后とも記す。母は蘇我稲目の女小姉君(おあねのきみ)。同母の兄弟に穴穂部皇子や崇峻天皇らがいる。父を同じくし,母の同母姉の堅塩媛(きたしひめ)を母とする用明天皇の后となり,聖徳太子,来目皇子,殖栗皇子,茨田皇子を生んだ。天皇の没後,天皇と異母妹蘇我石寸名との子である田目皇子と結ばれ,佐富女王を生んだ。【勝浦 令子】…

【孝徳天皇】より

…645年(大化1)6月に甥の中大兄皇子(天智天皇)らが蘇我氏権力を打倒すると,皇極女帝の譲位をうけて即位し,中大兄皇子を皇太子とし,年号を大化と定め,同年末に都を難波の長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)に移した。また中大兄皇子の妹の間人(はしひと)皇女を皇后としたが,即位以前にすでに妃の阿倍小足媛(おたらしひめ)との間に有間皇子を生んでいた。天皇の治世は改新政治の発足期で,中大兄皇子が実権を握って政治を推進したとみられるが,653年(白雉4)に至って,皇子は天皇が同意しなかったにもかかわらず,皇極上皇,間人皇后以下公卿百官人を率いて大和の飛鳥に戻った。…

※「間人皇女」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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