日本大百科全書(ニッポニカ) 「阪本清一郎」の意味・わかりやすい解説
阪本清一郎
さかもとせいいちろう
(1892―1987)
社会運動家。奈良県生まれ。被差別部落のなかでも裕福な地主・膠(にかわ)製造業者の次男として生まれ、商業学校卒業後、中国に渡って放浪、帰郷後差別からの脱出を目ざしてセレベス(スラウェシ)島移住計画をたてる。1919年(大正8)西光万吉(さいこうまんきち)らと燕(つばめ)会を結成、部落内の改革運動を始める。21年佐野学(まなぶ)の影響で部落解放運動を構想するが、水平社の名称は阪本が名づけた。22年全国水平社創立とともに中央委員となり水平運動に活躍、27年(昭和2)労働農民党中央委員となる。29年大和(やまと)無産統一党結成の中心となり、30年全国水平社中央委員会議長に就任、31年の舟木医師事件の大衆運動を指導するが、これを機に運動から引退する。34年西光万吉らと国家社会党の機関紙的な『街頭新聞』を発刊し、35年協同経済厚生会を組織して会長となり、部落経済改善運動に従事する。敗戦後は部落解放全国委員会顧問に就任、55年(昭和30)部落解放同盟中央委員となり、75年、国民融合を目ざす部落問題全国会議代表幹事となる。
[赤澤史朗]
『奈良県水平運動史研究会編『奈良県水平運動史』(1972・部落問題研究所)』