日本大百科全書(ニッポニカ) 「阪谷朗廬」の意味・わかりやすい解説
阪谷朗廬
さかたにろうろ
(1822―1881)
幕末維新期の儒学者で、明六社(めいろくしゃ)の最年長の同人。本名素(しろし)、字(あざな)は子絢(しけん)。備中国(びっちゅうのくに)(岡山県)川上郡日里村(現、井原(いばら)市)の旧家の三男として生まれる。幼時より漢学を修め、大塩平八郎の洗心洞(せんしんどう)に入門。のち江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)教授古賀侗庵(こがどうあん)(1788―1847)の久敬舎に学び、侗庵の晩年には塾頭を務めた。1853年(嘉永6)郷里に新たに設立された郷校(ごうこう)興譲館(こうじょうかん)の督学に迎えられ、維新までの十数年間、教育に専念。碩儒(せきじゅ)朗廬の名はしだいに高まり、水戸の弘道館(こうどうかん)、萩(はぎ)の明倫館とともに天下三館と称されるに至った。1871年(明治4)秋、廃藩置県後、東京に転居、これより約10年間、維新政府に下級官吏として出仕。1874年明六社に参加。1878年12月東京学士院会の互選会員に選出された。
[田代和久 2016年9月16日]
『阪谷素子絢著『朗廬全集』全1巻(1893・阪谷芳郎)』▽『高橋昌郎「明六社員阪谷素について」(『坂本太郎博士頌寿記念日本史学論集(下)』所収・1983・吉川弘文館)』