阿波庄・広瀬庄・山田有丸庄(読み)あわのしよう・ひろせのしよう・やまだありまるのしよう

日本歴史地名大系 の解説

阿波庄・広瀬庄・山田有丸庄
あわのしよう・ひろせのしよう・やまだありまるのしよう

鎌倉時代より室町時代初期にかけての東大寺荘園山田郡の東部に位置し、服部はつとり川の上流に開けた阿波あわ谷の小平地と、服部川の流れに沿って下り、馬野ばの川との合流点に開けた現広瀬ひろせ・現中村なかむらの小平地と、現平田ひらたの東辺までを含めた地域と想定される。有丸庄の位置も正確に比定することは不可能であるが、文書によっては山田有丸庄・有丸庄・有丸名あるいは山田本やまだほん庄・山田庄と称し、有丸の名称を使用しない時は単に山田庄と称している点などから考えて、広瀬庄の西方、現中村から現平田の東辺と比定されよう。

建久元年(一一九〇)一二月一二日付源頼朝下文(東大寺続要録)に杣としてみえ、「下 伊賀国山田郡内有丸并広瀬阿波杣山 可早停止地頭職事 右、件所依為没官地、雖補地頭、依院宣、所停止彼職也、早可為宋人進止」とあり、頼朝は地頭職を停止し、東大寺再建の功に当たっていた宋人陳和卿に与えた。同六年、「遣官使堺四至立券、田畠并杣山阿波・広瀬・有丸以所当地利、可充用東大寺内浄土堂不断念仏用途料」(建仁元年七月日付「記録所勘状案」東大寺文書)とあって、陳和卿は建久六年東大寺内浄土堂に寄付した。

山田有丸庄については、建久四年に伊賀国衙の在庁官人は、同庄は東大寺側に押領されたものであるとして、早くも収公の訴を起こしたようである。在庁官人がなにゆえ山田有丸庄のみを分離して収公の訴を起こそうとしたのかは明らかでないが、この訴は成功しなかったようで、建仁元年(一二〇一)三月日の伊賀国在庁官人解案(東大寺文書)によれば「念仏堂庄八十一町九段山田郡内 阿波条廿七町小 同新別府三町二段 同呂次名三町三段 広瀬村十八町 浄土寺三町 有丸名廿七町三段大」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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