大山田村(読み)おおやまだむら

日本歴史地名大系 「大山田村」の解説

大山田村
おおやまだむら

面積:九六・一七平方キロ

阿山郡の東南に位置し、北より東は鈴鹿郡せき町・安芸あげ芸濃げいのう町・同郡美里みさと村・久居ひさい市、南は名賀郡青山あおやま町、西は上野市、北は伊賀町に接する。東部は笠取かさとり(八二八メートル)を主峰として北に延びる鈴鹿山脈、南に延びる布引ぬのびき山地が伊勢国との境をなす。同山地域より発する服部はつとり川が西流し、馬野ばの川は北流して服部川に合し、当村域を東西に貫流し、なか峡谷で上野市に接する。総面積の八二パーセントが山林原野であるが、服部川流域沖積平野の山田盆地は標高一六〇メートル前後、県下屈指の優良米の産地。

大山田村
おおやまだむら

[現在地名]御調町大山田

下山田しもやまだ村の北東に接し、標高一八〇メートル以上に位置する山村北西に標高五三〇・九メートルの山田山がそびえ、南麓の小猿こざるを経て北西の宇津戸うづと(現世羅郡甲山町)に至る。御調川の支流山田川が開析谷を形成し、流域の標高二〇〇―四〇〇メートルの緩傾斜地に耕地や集落が展開。高所にあるため干害を受けやすかった。村の南部から北部にかけて掛田かけだ遺跡・後呂谷うしろだに遺跡・梶尾かじお遺跡などの弥生式土器散布地があり、北部には後期古墳のうめ古墳群、その南に小猿古墳・薬師堂付近古墳群がある。

大山田村
おおやまだむら

[現在地名]秋田市上北手大山田かみきたておおやまだ

小山田おやまだ村より山越えして南一三町にある山間の小村。西は猿田さるた村。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図は北に小山田の内大山田、南に山田村一七八石と記すが、位置関係からみて山田村が大山田村をさすと思われる。享保一四年(一七二九)の河辺郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)は次のように記す。

<資料は省略されています>

大山田村を山田村と改称しており、藩政初期には山田村とも呼称されたのであろう。同一五年の「六郡郡邑記」には、家数一四軒と記す。村の開発に関して文化(一八〇四―一八)頃の「六郡郷村誌略」に「肝煎十右エ門祖は代々三右エ門と云ハ郡奉行の名を憚りて改むと云元大平左近将監広忠の門葉嵯峨九郎五郎といふ、広忠没落して後百姓となる。

大山田村
おおやまだむら

[現在地名]君津市山滝野やまたきの

小滝こたき村の南西に位置する。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高五六石。元禄郷帳では高六〇石余、天保郷帳では高一〇二石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領で(寛文朱印留)、以降の領主変遷向郷むかいごう村に同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報