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陳和卿 ちんなけい

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

陳和卿
ちんなけい

平安時代末期,あるいは鎌倉時代初期に宋から来朝した仏像技術者。初め九州に渡来したが,兵火のため焼け落ちた東大寺の大仏の首を鋳造するため,東大寺僧重源に招かれ,寿永2 (1183) 年 14回の冶鋳の末に完成。

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デジタル大辞泉の解説

ちん‐なけい〔‐ワケイ〕【陳和卿】

中国、宋の工人。平安末期に来日。治承4年(1180)の東大寺焼失後、重源(ちょうげん)に従い、焼損した大仏と大仏殿の再興に協力。のち鎌倉に下り、源実朝に渡宋を勧め、大船を建造したが進水に失敗した。ちんわけい。生没年未詳。

ちん‐わけい【陳和卿】

ちんなけい(陳和卿)

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百科事典マイペディアの解説

陳和卿【ちんなけい】

平安末期来朝の中国(そう)の工人。生没年不詳。東大寺大勧進重源(ちょうげん)に見いだされ,1180年の兵火で焼けた東大寺復興に従事。大仏仏頭を鋳造。この功により播磨国大部(おおべ)荘などを重源より譲られたが,種々問題を起こし,やがて重源と決別。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

陳和卿 ちん-なけい

?-? 南宋(中国)の工人。
寿永元年(1182)重源にこわれて東大寺大仏の修復作業にくわわり,大仏頭部の鋳造などをおこなった。建保(けんぽ)4年鎌倉にいき,源実朝(さねとも)に渡宋をすすめ大船を建造するが,進水に失敗し,以後消息不明となった。名は「わけい」ともよむ。

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朝日日本歴史人物事典の解説

陳和卿

生年:生没年不詳
平安末・鎌倉初期に来日した南宋の工人。『玉葉』には寿永1(1182)年来日とあるが,それ以前とする説もあり不明である。同年,弟の陳仏寿と共に俊乗坊重源に招かれ,東大寺の再興事業,特に大仏の仏頭鋳造などに当たった。その後もひき続き再建に尽力したが,播磨国(兵庫県)大部荘の帰属をめぐって東大寺側と不和となり,建保4(1216)年には鎌倉に下向した。将軍源実朝に渡宋を進言し,そのための大船を造船したが,由比ケ浜における進水に失敗し,消息が途絶えた。鎌倉初期の建築,彫刻などに宋風の新しい造形や技法をもたらした巧匠と伝えられるが,半面争うことの多い驕慢な一面も持っていた。<参考文献>岡崎譲治「宋人大工陳和卿伝」(『美術史』35号)

(浅井和春)

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防府市歴史用語集の解説

陳和卿

 平安時代の末から鎌倉時代の初期に日本で活やくした中国の技術者です。中国に帰ろうとしていたところを重源[ちょうげん]に引き止められ、焼け落ちた東大寺の再建に協力しました。山口市の宮野に領地をもらっていたこともあります。

出典|ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版の解説

ちんなけい【陳和卿】

平安末期から鎌倉初期にかけて,東大寺大仏,大仏殿の再興などに参加した宋の技術者。生没年不詳。治承年間(1177‐81)以前に来日し,帰国できずにいた。1180年焼失した東大寺大仏の鋳師に人を得ずに困っていた勧進上人重源(ちようげん)に見いだされ,82年(寿永1)1月から84年(元暦1)5月にかけ,弟陳仏寿ら7人および河内国鋳師草部是助ら14人と共同して作業を行った。85年(文治1)8月大仏開眼供養ののち,翌年から大仏殿造営のため重源や番匠たちと周防国に下って巨材採取に当たり,90年(建久1)10月大仏殿上棟を終えた。

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大辞林 第三版の解説

ちんなけい【陳和卿】

南宋の工匠。一二世紀末期来日し、東大寺再建に際会して勧進上人重源とともに大仏の鋳造・寺院の復興に尽くした。将軍源実朝の信任を得て渡宋のための大船製作に当たったが船は進水せず、その後の消息は不明。生没年未詳。ちんわけい。

ちんわけい【陳和卿】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

陳和卿
ちんなけい

生没年不詳。中国、南宋(なんそう)の工人。平安末期に来日。1180年(治承4)平重衡(しげひら)の兵火によって焼失した奈良・東大寺の再興にあたった俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)に招かれ、頭部や両手を損傷した大仏の修理に参画、舎弟陳仏寿(ちんぶつじゅ)ら7人の宋工、草部是助(かやべのこれすけ)ら14人の鋳師の助力を得て完成し、1185年(文治1)8月、開眼(かいげん)供養会が行われた。ついで大仏殿造営用の材木を求めるため、重源とともに周防(すおう)国に赴くなど活躍した。建築構造を強固なものにするために、宋の技術を採用したのは彼の指導による。『東大寺造立供養記』によると、宋の工人が大仏殿の右脇侍(きょうじ)、四天王の制作に携わっていることが知れるが、南大門に現存する石獅子(じし)はその遺例とされる。[吉村 怜]

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世界大百科事典内の陳和卿の言及

【大部荘】より

…その後,東大寺は交換した3荘を手放さず,国衙と紛争がおこり,62年(応保2)5月に東大寺領として確定。治承・寿永の内乱で東大寺が焼かれると,当荘は90年(建久1)東大寺大勧進俊乗房重源(ちようげん)に与えられ,重源の申請で宋人の鋳物師陳和卿(ちんなけい)にあてがわれた。重源は荘内に播磨別所としての浄土寺を建立し,甥の観阿を住まわせた。…

【鎌倉時代美術】より


[南都復興と鎌倉彫刻]
 1180年(治承4)平氏による南都の焼打ちはどちらかといえば偶発的なものであるが,東大寺と興福寺の二つの強大な古代寺院の壊滅は文化史上の大事件であり,その復興造営は鎌倉美術の歩みを急激に早めた感がある。まず東大寺でみれば,入宋三度を自称する勧進聖人重源の努力によって85年(文治1)大仏が復興されたが,その鋳造には宋人の仏工陳和卿(ちんなけい)の技術的参与がある。90年(建久1)に大仏殿が上棟,96年には大仏をめぐる脇侍や四天王などの巨大な木像群と同種の石像群がつくられた。…

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