平安末期から鎌倉初期にかけて,東大寺大仏,大仏殿の再興などに参加した宋の技術者。生没年不詳。治承年間(1177-81)以前に来日し,帰国できずにいた。1180年焼失した東大寺大仏の鋳師に人を得ずに困っていた勧進上人重源(ちようげん)に見いだされ,82年(寿永1)1月から84年(元暦1)5月にかけ,弟陳仏寿ら7人および河内国鋳師草部是助ら14人と共同して作業を行った。85年(文治1)8月大仏開眼供養ののち,翌年から大仏殿造営のため重源や番匠たちと周防国に下って巨材採取に当たり,90年(建久1)10月大仏殿上棟を終えた。鋳造の間には河内鋳師と争いを起こし,大仏殿の用材を利用して勝手に唐船を造るなど,巧匠ではあるが驕慢な人物と評されている。1216年(建保4)鎌倉に下り,将軍源実朝の中国育王山参拝の夢を果たすべく唐船を造ったが,失敗に終わる。予想より船の重量が大きくなりすぎ,進水しなかったためらしい。その後の彼の消息は不明である。その行状を見ると,彼がほんとうに巧匠であったのかは疑わしい。
執筆者:佐藤 昭夫
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生没年不詳。中国、南宋(なんそう)の工人。平安末期に来日。1180年(治承4)平重衡(しげひら)の兵火によって焼失した奈良・東大寺の再興にあたった俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)に招かれ、頭部や両手を損傷した大仏の修理に参画、舎弟陳仏寿(ちんぶつじゅ)ら7人の宋工、草部是助(かやべのこれすけ)ら14人の鋳師の助力を得て完成し、1185年(文治1)8月、開眼(かいげん)供養会が行われた。ついで大仏殿造営用の材木を求めるため、重源とともに周防(すおう)国に赴くなど活躍した。建築構造を強固なものにするために、宋の技術を採用したのは彼の指導による。『東大寺造立供養記』によると、宋の工人が大仏殿の右脇侍(きょうじ)、四天王の制作に携わっていることが知れるが、南大門に現存する石獅子(じし)はその遺例とされる。
[吉村 怜]
(浅井和春)
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「ちんわけい」とも。生没年不詳。平安末~鎌倉初期に活躍した中国宋の工人。鋳造や建築に造詣が深く,日本に新しい技術を伝えた。商用で来日し,1182年(寿永元)に帰国しようとしていたとき重源(ちょうげん)に請われ,80年(治承4)の兵火に損傷した東大寺大仏の復興事業に参加。とくに困難をきわめた大仏頭部の鋳造には中心的な存在として活躍。85年(文治元)の開眼供養後,大仏殿の再建にも従事した。しかし当初から日本の工人と不和を生じ,やがて重源とも別れた。1216年(建保4)に鎌倉に下り,将軍源実朝のため渡宋用の唐船を造るが失敗,その後の事績は不明。
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…その後,東大寺は交換した3荘を手放さず,国衙と紛争がおこり,62年(応保2)5月に東大寺領として確定。治承・寿永の内乱で東大寺が焼かれると,当荘は90年(建久1)東大寺大勧進俊乗房重源(ちようげん)に与えられ,重源の申請で宋人の鋳物師陳和卿(ちんなけい)にあてがわれた。重源は荘内に播磨別所としての浄土寺を建立し,甥の観阿を住まわせた。…
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[南都復興と鎌倉彫刻]
1180年(治承4)平氏による南都の焼打ちはどちらかといえば偶発的なものであるが,東大寺と興福寺の二つの強大な古代寺院の壊滅は文化史上の大事件であり,その復興造営は鎌倉美術の歩みを急激に早めた感がある。まず東大寺でみれば,入宋三度を自称する勧進聖人重源の努力によって85年(文治1)大仏が復興されたが,その鋳造には宋人の仏工陳和卿(ちんなけい)の技術的参与がある。90年(建久1)に大仏殿が上棟,96年には大仏をめぐる脇侍や四天王などの巨大な木像群と同種の石像群がつくられた。…
※「陳和卿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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