富永庄(読み)とみながのしよう

日本歴史地名大系 「富永庄」の解説

富永庄
とみながのしよう

現高月町全域および木之本きのもと町の石道いしみち小山こやま田辺たべを含む一帯に比定される庄園。庄内の高月・柏原かしはら落川おちかわ宇根うね唐川からかわ雨森あめのもり尾山おやま井口いのくち馬上まけ野村のむらなどの各郷はほぼ近世村に継承される。高月町井口の日吉神社蔵の円満えんまん寺梵鐘銘に「近江国伊香郡己高山椎鐘」を寛喜三年(一二三一)三月四日「於富永御庄円満寺鋳之」とある。本願主は浅井教西と嫡男右馬允生江盛助、東浅井ひがしあざい西浅井・伊香の三郡の氏人らが結縁して鋳造している。同神社はもと新日吉・井口山王権現(山王社)と称し、当庄に関する多数の史料を所蔵する。以下の記述は井口日吉神社文書による。延暦寺領で領家は妙法みようほう(現京都市東山区)門跡。当庄の支配は(一)庄園領主―惣政所―代官―中司、(二)勘定衆―惣政所―中司、(三)山門使節―惣政所―中司といった三系統によって行われていた。山門使節は山門内および延暦寺領においては守護に準ずる権限をもっていた。

応永二八年(一四二一)、将軍足利義持の延暦寺への参籠にあたって、一月一二日山門使節は集会を開き、段銭二〇〇文を当庄に賦課すると決定した。これをうけて代官法橋兼全は中司少綱御房に段銭徴発の実行を命令した(山門使節集会事書案など)。同年二月には延暦寺の拝堂の修理のために寺領各庄に人夫役が定められたが、当庄には五二人の人夫が割当てられた(同月二八日公文所召人夫支配状案)。当庄は高島郡木津こうつ(現新旭町)・神崎郡栗見くりみ(現彦根市)とともに聖供米を貢納していたが、当庄の農民たちは悪米を供出していたらしい。


富永庄
とみながのしよう

天野あまの川下流の南岸からうめはら山西麓にわたる地域に比定される延暦寺領庄園。庄内に十六条じゆうろくじよう十七条じゆうしちじよう十八条じゆうはちじようなど古代の条里名を継ぐと考えられる郷があり、庄域は現米原町上多良かみたら・中多良・下多良および米原・朝妻筑摩あさづまちくまの一部にわたる。

「天台座主記」寿永二年(一一八三)閏一〇月一二日条に「富永庄」とあり、京都金剛勝こんごうしよう(のちの青蓮院)領であった。当庄は六条法印が青蓮院門跡慈円に寄進した庄園の一つで、建暦三年(一二一三)に「富永条々」が朝仁親王に譲られている(「慈鎮所領譲状案」華頂要略)。元仁元年(一二二四)に慈円によって始められた日吉十禅師宮礼拝講の料所として、門跡領である当庄の所当一〇〇石が充てられているが、大成就だいじようじゆ院領とも記される(「門葉記」、天福二年「慈源所領注文」華頂要略)


富永庄
とみながのしよう

富永の東部大門だいもんに伊賀別所新大仏しんだいぶつ寺があるが、その周辺一帯の地を富永庄と称したものと推定する。東大寺の荘園。嘉禄元年(一二二五)一一月五日の官宣旨案(東大寺文書)に「応任故法印定範譲、永停止定親已講濫妨、令無品法親王家相伝領掌東大寺別院東院門跡房舎聖教并大小末寺庄園弐拾捌箇処」として記される伊賀国七ヵ所のうちに「冨永庄」とある。これより先、建仁元年(一二〇一)三月日の伊賀国在庁官人解案(同文書)では「新立庄田二百八十三町七段六十歩」のうち、「念仏堂庄八十一町九段山田郡内」として「阿波条廿七町小」以下かなり詳細に記されているが富永庄の名前は現れていない。


富永庄
とみながのしよう

美山みやま町南部の富永から高富たかとみ町中東部の伊佐美いさみ、岐阜市北部の三輪みわにまたがる地域に分布した庄園。正治元年(一一九九)五月一九日の源頼家書状写(湖山集)に「法華堂御領美濃国富永庄」とあり、将軍源頼家は領家の申入れにより当庄地頭家長(姓未詳)の地頭職を停止している。鎌倉末期には領家が花山院家で、地頭が佐々木氏であり、南北朝期に入って領家花山院家の雑掌重慶と地頭佐々木中務丞実清女子の代官行重との間で、地頭代官による当庄内伊佐見いさみ郷の年貢未進をめぐって相論が行われている。貞和三年(一三四七)足利直義は領家雑掌の訴えを認め、建武四年(一三三七)以来の年貢の進納を地頭代官に命じている(貞和三年四月七日「足利直義袖判下知状」反町茂雄氏所蔵文書)


富永庄
とみながのしよう

「荘園志料」は菅沼系図を引いて、「菅沼安達、云云、文明年、洞院大納言藤原実熙卿、有故而配流于三州富永荘之時、安達従之而遊行矣」とあるもの、および織田家雑録に「天文十一年、設楽郡富永荘」とあるものを徴証としてあげ、その領域を現在の新城市、南設楽みなみしたら作手つくで村・鳳来ほうらい町、北設楽郡東栄とうえい町・設楽町・稲武いなぶ町などを含み、一九二ヵ村に及ぶ地域としているが、確たる資料は存しない。

作手村岩波の八柱いわなみのやはしら神社の宝暦五年(一七五五)棟札に「三河国設楽郡富永庄岩波村」とあるなど、作手地方の近世棟札にしばしば富永庄と記される。富永氏は古くから八名郡司であった伴氏の一族で、伴氏系図によれば伴助高が「参河半国惣追捕使、八名設楽郡為領主、号伴六介、宇利富永領地、号設楽伴別当」とあって富永を領し、資隆の末が富永氏を称している。


富永庄
とみながのしよう

白鳥しらとりの富永を遺称地とし、同所を含む一帯に比定される。建武三年(一三三六)四月五日の足利尊氏下文写(新編会津風土記/南北朝遺文(九州編)一)に「富永庄」とみえ、勲功の賞として三池道喜(安芸貞鑑)に与えられている。観応二年(一三五一)三池頼親(道喜の孫)は「富永郷」内の牛丸うしまる成貞しげさだ六郎丸ろくろうまる久富ひさとみの四名に松浦正崎三郎が侵入し苅田狼藉をしたと訴えている(同年一〇月二〇日「少弐頼尚問状写」同書/南北朝遺文(九州編)三)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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