日本歴史地名大系 「富永庄」の解説
富永庄
とみながのしよう
現高月町全域および
応永二八年(一四二一)、将軍足利義持の延暦寺への参籠にあたって、一月一二日山門使節は集会を開き、段銭二〇〇文を当庄に賦課すると決定した。これをうけて代官法橋兼全は中司少綱御房に段銭徴発の実行を命令した(山門使節集会事書案など)。同年二月には延暦寺の拝堂の修理のために寺領各庄に人夫役が定められたが、当庄には五二人の人夫が割当てられた(同月二八日公文所召人夫支配状案)。当庄は高島郡
富永庄
とみながのしよう
「天台座主記」寿永二年(一一八三)閏一〇月一二日条に「富永庄」とあり、京都
富永庄
とみながのしよう
富永庄
とみながのしよう
- 岐阜県:山県郡
- 富永庄
富永庄
とみながのしよう
- 愛知県:新城市
- 富永庄
「荘園志料」は菅沼系図を引いて、「菅沼安達、云云、文明年、洞院大納言藤原実熙卿、有故而配流于三州富永荘之時、安達従之而遊行矣」とあるもの、および織田家雑録に「天文十一年、設楽郡富永荘」とあるものを徴証としてあげ、その領域を現在の新城市、
作手村
富永庄
とみながのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報