陳平(読み)チンペイ(英語表記)Chén Píng

デジタル大辞泉 「陳平」の意味・読み・例文・類語

ちん‐ぺい【陳平】

[?~前178]中国前漢初期の政治家。陽武(河南省)の人。おくりなは献侯。漢の高祖劉邦)に仕え、恵帝のとき左丞相となり、周勃しゅうぼつと力を合わせて呂氏の乱を平定した。

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精選版 日本国語大辞典 「陳平」の意味・読み・例文・類語

ちん‐ぺい【陳平】

  1. 中国、前漢初期の功臣項羽の臣から高祖劉邦(りゅうほう)に投じ、奇策を用いて功をたてた。恵帝の時左丞相に、のち右丞相になる。呂氏の乱には周勃(しゅうぼつ)と力を合わせ平定した。前一七八年没。

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改訂新版 世界大百科事典 「陳平」の意味・わかりやすい解説

陳平 (ちんぺい)
Chén Píng
生没年:?-前178

中国,漢初の功臣。陽武(河南省原陽県付近)の人。貧農の家に育ったが読書を好み,みずからは労働しないで兄に扶養されていたという。陳勝が挙兵すると,初め魏咎(ぎきゆう)に仕えたが,讒言ざんげん)にあって逃れ,項羽の軍に帰属して都尉副将)に任ぜられた。しかし,ほどなく項羽の怒りをかって再び逃亡,漢に下って劉邦の護軍中尉(軍の監察官)となった。項羽と范増の仲を割いて楚軍に打撃を与えるなど,知謀によって漢の勝利に貢献した。漢の天下統一後も引き続き高祖の将となり,しばしば奇計を用いて韓信,陳豨(ちんき)らの謀反を討ち,曲逆(くぐう)(河北省保定市の南西)に封ぜられた。恵帝のときに左丞相となり,右丞相の王陵が呂后の専政を憤って死ぬと右丞相にうつった。呂后の政権下では多難であったがよく克服し,呂后が死去するや太尉の周勃(しゆうぼつ)と謀って呂氏一族を誅滅文帝を擁立して劉氏政権を復興させた。文帝に仕えること2年にして死去,献侯と諡(おくりな)された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「陳平」の意味・わかりやすい解説

陳平
ちんぺい
Chen Ping; Ch`ên P`ing

[生]?
[没]文帝2(前178)
中国,漢代の政治家。陽武,戸いう (河南省蘭考県) の人。郷里にあっては貧しかったが信望あり,秦末の反乱に際し,初め魏王および項羽に従い,のち劉邦 (→高祖) に仕えて漢の統一に功を立てた。高祖が平城で匈奴に包囲されたとき,これを救助し曲逆侯に封じられ,恵帝の時代には左丞相となり,周勃とともに呂氏一族の専権を倒し (→呂氏の乱 ) ,文帝を擁立した。

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世界大百科事典(旧版)内の陳平の言及

【黄老】より

…要するに,黄老思想の成立は早くとも戦国末のことであったと考えられる。漢初には,〈黄老の術〉を治道のかなめに用いた曹参や,〈黄帝老子の術〉を愛した陳平など,秦の法術主義の反動として,〈清浄無為〉の政術を標榜する思想が有力なものとして存在した。このような黄老思想は,漢の武帝による儒教一尊体制の確立とともにすがたをけすが,その後〈黄老〉はひろく道家的哲理をさすことばとして用いられたほか,黄帝書は医学のなかに継承され,また後漢代には〈黄老君〉とよばれる神仙的な神格が生まれた。…

※「陳平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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