中国,前漢王朝の創始者。在位前202-前195年。姓は劉,名は邦,字を季という。漢朝の太祖のゆえに死後,高皇帝と尊号された。布衣の身から皇帝になった人物として,明朝の太祖洪武帝朱元璋と並び称せられる。沛(はい)の豊邑(江蘇省豊県)に生まれた。父は太公,母は劉媼(劉家のばあさん)と史書に残るだけで,名前はわからない。中農程度の農民家庭であった。竜が劉媼の上にのって身ごもり,劉邦が生まれたと伝えられるが,これは英雄の出生譚によくある感生伝説といえよう。青年時代は父兄の監督から逸脱した任俠の徒であり,沛の王陵や梁の張耳など任俠の元締めのもとに寄食した。壮年になるにおよんで泗水の亭長(むらおさ)に任命され,このころ後の呂后すなわち呂雉(りよち)をめとった。
陳勝・呉広が反秦の兵をあげると,沛県もこれに呼応した。沛の父老は,劉邦には吉祥が多いとして彼を沛公に推したてた。劉邦は,豊邑ついで碭(とう)郡を本拠としつつ,反秦活動をくりひろげた。陳勝・呉広が戦死したあとは,項羽・項梁と同盟を結んで秦軍に相対した。項羽が擁立した楚の懐王から,前207年,碭郡長をさずけられ武安侯に封ぜられた。懐王は,まっさきに関中を定めたものを関中王とすると約束したが,劉邦は関中の秦都咸陽をめざして軍を進め,河南および潁川(えいせん)の郡県を攻略した。さらに南下して南陽宛城を収め,西に転じ武関を経由し諸将に先んじて関中の覇上に至った。秦王の子嬰は,素車白馬(喪礼の車),首にはくみひもをかけて,劉邦の前に降った。この年(前206)10月をもって漢朝の元年とする。劉邦は,諸県の父老と法三章のみを約束して,苛酷な秦法をことごとく廃除した。部下の能吏であった蕭何は,秦の丞相・御史が管理していた律令図書の類を接収し,これにより天下の要害や戸口の多寡などの情報を得,以後の戦局を有利に導いた。
2ヵ月おくれて函谷関を破って関中に進駐してきた項羽は,劉邦に出し抜かれて大いに怒り,両雄は相対立した。一触即発の局面は劉邦が折れ,謝罪することで和解が成立した。いわゆる鴻門の会である。項羽は自軍の勢力を背景に懐王を尊んで義帝とし,みずからは西楚覇王と称して天下に号令した。劉邦は辺境の漢王に封建され,巴・蜀・漢中の3郡の封地を与えられた。しばらく四川盆地の封国に就いた劉邦は,韓信を大将に抜擢して体勢を整え,項羽に対する反攻の機をうかがった。義帝の殺害,亜父范増との不和,論功行賞の不満による諸将の離反により,項羽の勢力はしだいに衰えはじめていた。劉邦の下では蕭何,張良,韓信の三傑がよく補佐し,兵卒や軍糧の補給など後勤,策略,軍隊の指揮を分担した。斉の田栄,趙の陳余らが項羽に反旗をひるがえしたのを機に,楚・漢の戦端は開かれた。戦いは一進一退を続けたが,ついに前202年,垓下(がいか)の戦で項羽を破って天下統一がなしとげられた。皇帝に即位した劉邦は一時洛陽を国都とした。しかし張良の献策により長安に移って国都と定め,蕭何に命じて長安の都城の造営に着手させた。長楽宮ついで未央宮の完成に伴い,ここを帝居とした。
劉邦は〈寛大長者〉とされ,秦代の極端な法罰主義の弊害にかんがみ,諸事万端につけ寛宥と簡易を政治理念とした。中央政府の官僚機構は秦制を踏襲したが,地方政治では郡県と封建とを併用した郡国制度を採用した。諸侯王には大幅な自治を付与し,その封国はあたかも半独立国のごとき様相を呈していた。異姓の諸侯王は劉邦の在位中にほとんど排除されたが(〈劉氏にあらざる者は王たるべからず〉),同姓については藩屛として温存した。列侯の一人を丞相に任じ,公卿による集議を主宰し,国政を運営させた。蕭何に命じて秦法から時勢に適合する条文を選び,明直なる律九章を制定させた。対外政策では,北辺の脅威であった匈奴を親征したが,白登に包囲され,かろうじて脱出した経験に懲り,兄弟の約を結んで和親消極策をとった。淮南(わいなん)王英(黥)布を討伐のとき,流れ矢にあたった傷がもとで,蕭何のあとは曹参,王陵,陳平,周勃を登用すべきことを呂后に遺言して居所長楽宮にその波瀾の生涯を終えた。秦末の動乱期を項羽と覇を争い,巨大な統一政権である漢帝国の礎をよく築いた劉邦は,中国史上においても稀にみる人物の一人であったといえる。
執筆者:上田 早苗
中国,唐朝の創立者で初代皇帝。在位618-626年。姓名は李淵。高祖は廟号。唐代の書物に〈淵〉字の代用に他字(たとえば〈深〉)をあてることがあるのは,高祖の諱(いみな)を避けたものである。西涼を興した隴西(ろうせい)の名族李暠の子孫と伝えられるが疑わしい。通婚関係などから北族の血を交えていると思われる。北魏時代武人として武川鎮(内モンゴル,フフホト北方)に移住した。李淵の祖父李虎のとき宇文泰らと西魏を創建,当時最高の将帥たる柱国大将軍の一人であった。李氏は宇文氏(北周),楊氏(隋)らと同郷で,互いに通婚していわゆる武川鎮軍閥を構成した。李淵と楊広(隋の煬帝(ようだい))とは独孤氏姉妹をそれぞれ母とする従兄弟関係にある。李淵は貴族の子弟の通例として侍従武官コースを昇進したが,独裁君主煬帝に忌まれて,韜晦(とうかい)につとめた。反乱情勢の深まった615年(大業11)以後汾水流域の討伐軍司令官を命ぜられ,太原に駐屯した。
当時民間では李氏による革命説が流布し,一方,李淵の周辺には亡命者たちが庇護を求めて集まった。たまたま群雄の一人劉武周によって離宮汾陽宮が占拠され,責任者たる李淵は危地に立たされた。次子の李世民(太宗)や側近にうながされた李淵は,617年挙兵,兵3万をもって大将軍府を建て,李建成・李世民の2子にそれぞれ左右両軍を統率させて,汾水を下った。隋軍,群雄の抵抗を排して長安に入り,煬帝の孫代王侑(ゆう)を天子に奉じ,煬帝を太上皇とし,みずからは大丞相・唐王を称した。翌年煬帝の訃報が伝わると,侑の禅譲を受けて唐朝を建て,武徳と改元した。武徳年間(618-626)には群雄平定作戦が成功裡に展開されると同時に,律令制定(武徳7)などの内治が推進された。李淵は度量の大きい人物で,ひろく人材を包容したが,一方,軍隊を掌握する李建成・李世民・李元吉の3子を統制できず,政令が統一しなかった。兄弟間の勢力争いはついに玄武門における李世民の李建成・李元吉殺害事件をみちびいた。事件後,李世民に譲位し,太上皇として晩年を送った。
執筆者:谷川 道雄
中国五代の後晋の建国者。石敬瑭が姓名,高祖は廟号。突厥(とつくつ)系の出身。後唐明宗の第一の功臣として宣武(開封)など,いくつかの要地の節度使を兼ね,のち契丹との最前線太原に鎮し,その防衛に当たった。彼と相いれない廃帝が明宗の没後に即位すると,契丹と結んで帝位につき大晋と号し,その援助で後唐を滅ぼした(936)。その際,代償として契丹に莫大な歳幣を約し,契丹国王を父と呼んで臣事した。またこのときの長城以南の地である燕雲十六州割譲は長く係争の地となった。
執筆者:愛宕 元
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中国、皇帝を太廟(たいびょう)に祀(まつ)るとき追贈される廟号(びょうごう)の一つ。元来は5世の祖(曽祖父(そうそふ)の父)の称。太祖と並んで、おおむね王朝の創立者に贈られる。
[尾形 勇]
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…拓跋(元)宏。廟号高祖。献文帝の長子として生まれ,471年(延興1)父帝の譲位を受けて即位。…
…在位907‐918年。廟号は高祖。字は光図。…
…前202‐後220年。秦の滅亡(前206)後,項羽と覇権を争って勝利を収めた農民出身の劉邦(漢の高祖)によって創建された。前206年,劉邦は項羽より漢王に封ぜられたが,漢の名はこれに由来する。…
…地方の俗謡とそのかえうたを含む。漢の高祖劉邦が作ったという〈大風(たいふう)の歌〉は彼の死後その祭りでうたわれたが,その曲は楚の地方の歌謡のふし(楚声)であった。やはり漢代の軍楽だったという〈短簫鐃歌(たんしようどうか)〉の数曲はおそらく北方中国の民族の歌謡であろう。…
…李淵はいったんは煬帝の子を擁立して恭帝とし,江都にいた煬帝を太上皇と称せしめたが,煬帝が殺されたという知らせを聞くや,恭帝に迫って禅譲させ,帝位についた。これが唐の高祖であり,ここに唐王朝が成立した。唐朝は,黄巣の乱後に黄巣の部下であった朱全忠に禅譲させられるまで,およそ290年の命脈を保ったが,8世紀半ばに起こった安史の乱ごろを境として,前半期と後半期とではあらゆる局面で性格を異にする。…
※「高祖」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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