劉邦(読み)リュウホウ

デジタル大辞泉 「劉邦」の意味・読み・例文・類語

りゅう‐ほう〔リウハウ〕【劉邦】

[前247~前195]中国、前漢の初代皇帝。在位、前206~前195。あざなは季。廟号びょうごう高祖はい県(江蘇省)の人。始皇帝没後の前209年、陳勝呉広の乱を機に挙兵項梁項羽と連合して軍を進め、項羽に先立って咸陽を陥れ、漢王に封ぜられた。さらに前202年、項羽を垓下がいかの戦いに破って天下統一長安を都として漢朝を創始

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精選版 日本国語大辞典 「劉邦」の意味・読み・例文・類語

りゅう‐ほうリウハウ【劉邦】

  1. 中国漢の創始者で初代皇帝(在位前二〇二‐前一九五)。廟号は高祖。沛の出身。秦末に挙兵して項羽とともに秦を滅ぼし、さらに項羽を打倒して天下の統一に成功即位して国を漢と号し、長安を都とした。秦の政治制度の多くを継承しつつ、それらを独自に発展させて、漢の基礎を築いた。(前二四七または前二五六‐前一九五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「劉邦」の意味・わかりやすい解説

劉邦
りゅうほう
(前256/247―前195)

中国、前漢朝の創始者(漢朝の君主としての在位は前206以降)で、初代皇帝(皇帝としての在位は前202~前195)。廟号(びょうごう)は高祖。字(あざな)は季(き)。沛(はい)(江蘇(こうそ)省沛県)の豊邑(ほうゆう)(江蘇省豊県)の出身。父母は太公(じいさん)、劉媼(おう)(劉ばあさん)とのみ伝わり、名も不明の庶民、農民の生まれで、若いころ農業生活を嫌い、泗水(しすい)(江蘇省沛県付近)の亭長となった。このころ呂雉(りょち)(後の呂后(りょこう))をめとる。この時期に驪山(りざん)の皇帝陵造営のため囚徒を現場に護送する任務についたが、逃亡者が多く出たので、豊の西の沢地で残りの囚徒を解放し、劉邦は亡命して沛の付近で群盗の首領となった。解放した囚徒の一部や沛の若者がそのもとに参加した。陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の乱が起こると、紀元前209年9月、彼は沛の父老(村落の指導者層)に推されて挙兵し、沛の子弟3000人を統率し、沛公と称した。翌年4月、北上してきた項梁(こうりょう)、項羽(こうう)の軍に会い、連合した。その後、項羽が北東方で秦(しん)軍の主力と決戦を展開している間に、劉邦は南方を西進し、南陽、武関を経て項羽より早く秦の首都咸陽(かんよう)を陥れ、秦王嬰(えい)を降伏させた。そして秦の厳しすぎる法律を廃止し、人を殺した者、傷つけた者、盗みをした者を処罰するという「法三章」を約束して人心を収めた。約1か月遅れて咸陽に到着した項羽は劉邦を殺害しようとしたが、両人の有名な「鴻門(こうもん)の会」で、部下の樊噲(はんかい)、張良や項羽の一族項伯(こうはく)の助けで難を免れた。このようにして秦が滅亡すると、項羽は西楚覇王(せいそはおう)と称し、劉邦は前206年漢王に封ぜられ、いったんは漢中(陝西(せんせい)省南鄭県)に入った。漢朝の名称の始まりである。しかしまもなく彼は、最初の約束では与えられるはずであった関中(陝西省中部、渭水(いすい)盆地)に進出した。そして項羽が、戦国時代の楚の王族で名分上の共同の君主としてたてていた義帝を殺害すると、劉邦はこれを名目として項羽を討つことを宣言し、4年間の漢と楚の抗争が始まった。前202年項羽は垓下(がいか)の戦いで敗死し、劉邦の天下統一が実現した。同年漢王劉邦は皇帝の位につき、首都を長安に定め、斉(せい)の田氏など地方の大姓を首都周辺に移住させた。

 劉邦の漢帝国の統治体制は、官制では秦の制度を踏襲したが、地方統治では郡県制を敷くとともに封建制を併用し、漢朝建設に功のあった諸将、部下および近親、一族を諸侯王、列侯として各地に封建した。これが漢の郡国制である。しかし劉邦は彼の一代の間に、韓信、彭越(ほうえつ)、英布などの功臣の諸侯王を、長沙(ちょうさ)王呉苪(ごぜい)を除いてすべて滅ぼし、諸侯王は漢の一族に限るという原則をつくり、王朝の基礎を固めようとした。対外関係では秦末から再度オルドスに南下した匈奴(きょうど)に攻勢をとって親征したが、平城(山西省大同県)付近の白登で大敗し、以後匈奴との和親が武帝時代までの漢の対外政策の基調となった。劉邦は庶民の出身で粗野であったが、性格は大胆で周密、また包容力に富み、諸将や部下を巧妙に使ったことが、項羽に勝利して最終的な成功者となった理由であるといわれる。陵墓は長陵。

[影山 剛]

『河地重造著『漢の高祖』(1966・人物往来社)』


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山川 世界史小辞典 改訂新版 「劉邦」の解説

劉邦(りゅうほう)
Liu Bang

前247~前195(在位前202~前195)

前漢の初代皇帝。廟号は高祖。江蘇省沛(はい)県の人。中流農家に生まれる。家業に励まず,遊侠の徒と親交を結び,泗水(しすい)の亭長(警史)となる。前209年陳勝・呉広の乱に続いて挙兵,優れた人間的包容力をもって配下に人材を集めた。前206年,項羽に先んじて関中に入りを滅ぼしたが覇権は項羽が握り,彼は漢中(陝西(せんせい)省南部)の王となった。ついで項羽と争い,前202年の垓下(がいか)の戦いに勝って天下を統一した。彼の国家統治は秦の官制,法治主義を受け継いだが,漸進的集権化を図って郡国制をしき,一方匈奴(きょうど)に対しては消極策をとりつつ,漢帝国の基礎確立に努めた。

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改訂新版 世界大百科事典 「劉邦」の意味・わかりやすい解説

劉邦 (りゅうほう)
Liú Bāng

高祖(漢)

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百科事典マイペディア 「劉邦」の意味・わかりやすい解説

劉邦【りゅうほう】

高祖

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「劉邦」の意味・わかりやすい解説

劉邦
りゅうほう

「高祖[前漢]」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の劉邦の言及

【垓下の戦】より

…中国,前202年に漢の劉邦(高祖)と楚の項羽の間におこなわれた決戦を言う。垓下Gāi xiàは現在の安徽省霊璧県の地である。…

【漢】より

…前202‐後220年。秦の滅亡(前206)後,項羽と覇権を争って勝利を収めた農民出身の劉邦(漢の高祖)によって創建された。前206年,劉邦は項羽より漢王に封ぜられたが,漢の名はこれに由来する。…

【函谷関】より

…関門は日没に閉じて日の出とともに開くことになっており,斉の孟嘗君(もうしようくん)が秦から逃げ出すとき,従者が鶏の鳴声をまねて夜の明けないうちに関門を開かせたという話は,ここが舞台である。また劉邦が秦を攻めて先に関中を占領し,項羽の関中進入を防ごうとしたのもこの場所であった。古来この地でくりひろげられた東西の攻防戦は,数えきれないほどである。…

【項羽】より

…中国,秦末に,劉邦(漢高祖)と天下を争った英雄。名は籍,羽は字。…

【高祖】より

…中農程度の農民家庭であった。竜が劉媼の上にのって身ごもり,劉邦が生まれたと伝えられるが,これは英雄の出生譚によくある感生伝説といえよう。青年時代は父兄の監督から逸脱した任俠の徒であり,沛の王陵や梁の張耳など任俠の元締めのもとに寄食した。…

【皇帝】より

…これは,皇帝の死後に(おくりな)をおくるならば,子孫や臣下が先帝の生前の行為をあげつらうことになり,皇帝は死後といえども批判を禁ずべき絶対の存在であると考えたためである。秦王朝が項羽や劉邦などによって滅ぼされると,中国は項羽以下の多くの新しい王によって分割統治された。前202年劉邦らが楚漢の争いに勝って項羽が自殺すると,諸王は一致して漢王劉邦に皇帝の尊号をたてまつり,劉邦は皇帝の位について漢王朝が始まった。…

【鴻門の会】より

…中国,劉邦(漢の高祖)と項羽との鴻門(陝西省臨潼県)における会見(前206)をいう。両雄は秦の本拠である関中をめざしたが,劉邦の方が武関から先に入関した。…

【張良】より

…このとき黄石老人から太公望呂尚(りよしよう)の兵法書を授かったといわれる。陳勝・呉広の挙兵に呼応してたち上がり,劉邦に従ってその軍師となった。秦軍を破って関中に入り,秦都咸陽をおとし,有名な鴻門(こうもん)の会では劉邦を危地から救い,さらに項羽を追撃して自害に追いやるまで,彼はつねに劉邦の帷幕(いばく)にあって奇謀をめぐらし,漢を勝利にみちびいた。…

※「劉邦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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