項羽(読み)こうう(英語表記)Xiang Yu; Hsiang Yü

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

項羽
こうう
Xiang Yu; Hsiang Yü

[生]秦王政(始皇帝)15(前232)
[没]高祖5(前202)
中国,秦末の武将。名は籍,字は羽。項氏は代々の将軍。叔父の項梁に兵法を学び,会稽に住んだ。胡亥1 (前 209) 年,陳勝らが兵をあげると,項梁とともに挙兵し,会稽の兵 8000人を率いて,江を渡って北上。途中で楚の懐王の孫心を立てて楚王とし,章邯の率いる秦軍と戦ってこれを破り,さらに西進して関中に入り,秦の王子嬰を殺し,咸陽を焼払い,懐王を義帝とし,みずからは西楚の覇王と号した。また一足先に関中に入っていた劉邦 (→高祖) らを諸侯に封じたが,劉邦はこれを不満として挙兵し,以後5年にわたって項羽と争った。項羽はしばしば劉邦を死地に陥れたが,高祖5 (前 202) 年逆に垓下 (安徽省霊璧県) に包囲され,愛姫虞美人との別離を悲しむ絶唱を残して,自殺。

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デジタル大辞泉の解説

こう‐う〔カウ‐〕【項羽】

[前232~前202]中国、末の武将。宿遷(江蘇省)の人。名は籍。叔父項梁とともに兵を挙げ、漢の高祖(劉邦)と協力して秦を倒し、楚王となった。のち、劉邦と天下を争うが、垓下(がいか)の戦いに敗れ、烏江(うこう)で自殺。
謡曲。五番目物。唐の烏江の野辺の草刈り男の前に、項羽の霊が現れ、回向を頼み、激戦の模様を語る。

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百科事典マイペディアの解説

項羽【こうう】

漢の劉邦(高祖)と天下を争った英雄。名は籍。戦国時代の楚の将軍の家に生まれ,前209年叔父の項梁とともに挙兵。を滅ぼした後は西楚の覇王と称し,群雄を従えたが,やがて劉邦と争い,前202年垓下(がいか)(現,安徽省霊璧県)の戦に四面楚歌なるを知り,愛姫虞美人(ぐびじん)と別れ,のがれたが自決。
→関連項目阿房宮陳勝・呉広

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世界大百科事典 第2版の解説

こうう【項羽 Xiàng Yǔ】

前232‐前202
中国,秦末に,劉邦(漢高祖)と天下を争った英雄。名は籍,羽は字。戦国の将軍の血筋をひき,下相(江蘇省宿遷県)で生まれた。幼くして孤児となり,叔父の項梁(こうりよう)にひきとられて教育をうけ,前209年に陳勝・呉広らが反乱をおこすと,項梁とともに呉(蘇州市)で兵を挙げた。項梁は楚王の子孫の心(しん)を懐王に立てて反秦勢力を結集したが,彼が戦死すると代わって項羽と劉邦がその中心となった。前208年,懐王は〈関中(秦の地)を平定したものをそこの王とする〉と約束し,彼らは二手に分かれて秦都咸陽へ向かって進撃した。

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大辞林 第三版の解説

こうう【項羽】

○前232~前202) 秦末の武将。名は籍。楚の人。叔父項梁こうりようと挙兵し、劉邦とともに秦を滅ぼし楚王となったが、垓下がいかの戦いで劉邦に敗れ、烏江で自殺した。虞美人ぐびじんはその寵姫ちようき
能の一。五番目物。虞美人草のいわれと項羽の最期の様子を描いたもの。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

項羽
こうう
(前232―前202)

中国、秦(しん)・漢交替期に現れた群雄の一人。名は籍、羽は字(あざな)。楚(そ)の将軍の家柄を引く貴族的階層に属するといえよう。羽は叔父の項梁(こうりょう)に教育を受け、会稽(かいけい)郡(江蘇(こうそ)省)に居住していたが、陳渉(ちんしょう)の反乱に乗じて秦に背いた。梁の戦死後、羽は諸将のリーダーとなり、秦の章邯(しょうかん)を破って関中に入り、秦の王、子嬰(しえい)を殺して咸陽(かんよう)を焼いた。やがて楚の懐(かい)王を推戴(すいたい)して義帝とし、自らは西楚の覇王と称した。このとき部下18名を王に封じている。封建体制の復活である。漢の高祖劉邦(りゅうほう)は王に封ぜられず、不満を抱いて羽に反旗を翻した。双方の戦闘はしばしば繰り返されたが、義帝を擁立し、つごうで殺した項羽に大義名分が失われたので、しだいに高祖が優勢となった。もっとも高祖の部下の王陵の批評に、項羽は礼儀正しいが功臣に褒賞をやるのを渋り、高祖は無礼だが物惜しみをしないといっている。こんなところに項羽の敗北の遠因があったかもしれない。この覇権争奪は郡県か封建かをめぐる争いであり、羽の敗北は歴史上一つの画期となった。羽は保守的立場にあったが、伝えられる悲劇の英雄像は民衆の封建制に対する挽歌(ばんか)ともいえよう。最後の決戦となった垓下(がいか)の敗北ののち死んだ項羽は、いまだ31歳であった。[好並隆司]

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世界大百科事典内の項羽の言及

【垓下の戦】より

…中国,前202年に漢の劉邦(高祖)と楚の項羽の間におこなわれた決戦を言う。垓下Gāi xiàは現在の安徽省霊璧県の地である。…

【虞美人】より

…中国,項羽の愛姫で虞姫ともいう。5年にわたる楚・漢抗争のすえ,前202年に項羽は劉邦の漢軍によって垓下(がいか)(安徽省霊璧県)に囲まれた(垓下の戦)。…

【高祖】より

…劉邦は,豊邑ついで碭(とう)郡を本拠としつつ,反秦活動をくりひろげた。陳勝・呉広が戦死したあとは,項羽・項梁と同盟を結んで秦軍に相対した。項羽が擁立した楚の懐王から,前207年,碭郡長をさずけられ武安侯に封ぜられた。…

【鴻門の会】より

…中国,劉邦(漢の高祖)と項羽との鴻門(陝西省臨潼県)における会見(前206)をいう。両雄は秦の本拠である関中をめざしたが,劉邦の方が武関から先に入関した。…

【覇王別姫】より

…秦末(前3世紀)の史実にもとづく。覇王項羽は,漢王劉邦の大軍に垓下(がいか)で取り囲まれた。四面楚歌――張良の歌声作戦にかかり,今やこれまでと思った項羽は,愛姫虞美人と最後の宴をはり,悲歌慷慨して〈力,山を抜き,気,世を蓋(おお)う。…

※「項羽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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