隠岐国分寺跡(読み)おきこくぶんじあと

日本歴史地名大系 「隠岐国分寺跡」の解説

隠岐国分寺跡
おきこくぶんじあと

[現在地名]西郷町池田

天平一三年(七四一)の聖武天皇の詔により各国ごとに設けられた国分僧寺で、法華滅罪之寺とよばれた国分尼寺に対し、正しくは金光明四天王護国之寺と称した。中世近世にもその存在が確認されるが、明治初年の廃仏毀釈廃寺となる。明治一二年(一八七九)復興がなり、現在は東寺真言宗に属する。禅尾山と号し、本尊釈迦如来。

「三代実録」貞観九年(八六七)五月二六日条に隠岐をはじめ出雲石見など山陰の五国に対して、新羅の賊船を調伏するためそれぞれ八幅の四天王像を送り、眺望のよい地に道場を置き、国分寺などから僧四人をよんで修法させたとある。隠岐の四王しおう寺は国分寺境内に置かれていた。「延喜式」主税寮上諸国出挙正税公廨雑稲条によれば寺料として五千束の出挙利稲が与えられることとなっていた。一般に国分寺は一〇世紀以後律令制の衰退に伴いその存在意義を失い退廃したとされ、隠岐でも国分尼寺は同様の過程をたどったと推定されているが、国分僧寺は平安末―鎌倉期以後も国衙関係寺社の一つとして存続した。

応安二年(一三六九)二月三日の前肥前守某寄進状写(隠岐国代考証)によれば、原田はらだ郷内にある国分寺内四王寺の田地六段が本主三代の間断絶しているとして改めてこれを国分寺に寄進しており、明徳二年(一三九一)四月一〇日、再度確認されている(「前駿河守義時寄進状写」同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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