大学事典 「雇用の流動化」の解説
雇用の流動化
こようのりゅうどうか
日本経済再生本部における安倍総理の指示(2013年4月)の一つとして「成熟産業から成長産業へ『失業なき円滑な労働移動』を図る」ことが示された。このため,雇用支援策に関して,「行き過ぎた雇用維持型から労働移動支援型への政策シフトを具体化すること」があげられた。国の政策として,雇用の流動化を推進するということである。その背景には,正規と非正規雇用者間の格差の固定化という社会問題がある。
雇用の流動化は,社員教育の転換を促す。日本企業の社員教育は,終身雇用と年功賃金という日本型雇用慣行に基づく先行投資と捉えられてきたからである。終身雇用であれば,企業は自社精神の育成をも含む人材育成を計画的に編成しやすく,教育に投資する意味があった。1980年代後半のいわゆる「バブル経済期」には,大学を卒業した新入社員であっても「一から教育し直す」と豪語する企業が存在した程,日本企業ではOJT(On the Job Training)とOff-JT(Off the Job Training)を組み合わせた社員教育が計画的・組織的に推進されていた。しかし,1990年代の「バブル経済の崩壊」以降,多くの企業では「即戦力」となる人材の中途採用や非正規雇用者を増やすとともに,日本型雇用慣行に基づく社員教育のあり方を見直さざるを得なくなったのである。
今日の日本企業では,企業主導の社員教育から社員の主体性や多様性(ダイバーシティ)を生かすナレッジ・マネジメントへと転換している。その理由は,大別すると二つある。一つは,今日の企業には社員教育の先行投資をする余力がなく,社員の自助努力による自己教育に任せざるを得ないということである。もう一つは,企業主導型の従来の社員教育ではさまざまな変化に対応できないということである。今日の企業は,技術革新・国際競争等の唯一の正解があるわけではないさまざまな課題や変化に対応しなければならず,そのためには「形式知」のみならず「暗黙知」をも含む幅広い知識や情報を用いなければならない。また新製品の開発をする際等には,既存の価値の枠組みにとらわれない発想の転換や新しい価値の創造も必要である。つまり,社員一人一人の多様性を最大限に生かすナレッジ・マネジメントをしなければ,急速で複雑な変化に対応できないのである。
[大学教育の質的転換]
雇用の流動化は,力量形成のあり方の質的転換をも促す。終身雇用制が安定していた時代には当該企業の中で発揮される能力を社員教育や仕事を通じて身につけていれば良かったが,雇用が流動化した時代にはライフプランやキャリアデザインを主体的に考え,自助努力によりエンプロイアビリティ(当該企業の内外で発揮される労働市場性の高い能力)を高めなければならないからである。
経済産業省では「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力」を「前に踏み出す力」「考え抜く力」「チームで働く力」の三つの能力と12の能力要素からなる「社会人基礎力」として提唱している。社会人として「基礎学力」「専門知識」に加え,「社会人基礎力」を培う必要があるということである。また,中央教育審議会答申「学士課程教育の構築に向けて」(2008年)では,「各専攻分野を通じて培う学士力」を提唱している。「社会人基礎力」や「学士力」が唱えられるようになった背景には,OECD(経済協力開発機構)の「コンピテンシーの定義と選択」プロジェクト(Definition and Selection of Competencies: DeSeCo,デセコ)が2003年にまとめた「キー・コンピテンシー」がある。コンピテンシーとは単なる知識や技能を指すのではなく,「相互作用的に道具を用いる力」「自律的に活動する力」「異質な集団で交流する力」の三つのカテゴリーからなり,同プロジェクトではそれらの力を培う生涯学習の必要性を説いている。
このような動向を踏まえて中央教育審議会がまとめた答申「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて(中教審答申)」(2012年)の副題が「生涯学び続け,主体的に考える力を育成する大学へ」であるように,今日の大学の役割は生涯学習者の育成である。具体的には,「答えのない問題に解を見出していくための批判的,合理的な思考力等の認知的能力」「チームワークやリーダーシップを発揮して社会的責任を担う,倫理的,社会的能力」「総合的かつ持続的な学修経験に基づく創造力と構想力」「想定外の困難に際して的確な判断ができるための基盤となる教養,知識,経験」などを「学士力」として培うことが求められている。そのために,教員が一方的に話す講義形式の授業からディスカッションのような双方向で学びあう授業へ,またインターンシップのような教室外学修プログラムで学生が主体的に学ぶ教育への質的転換が必要であると同答申は強調している。
大学教育の質的転換では,女性(雇用)の教育も重要な課題の一つとなる。正規と非正規雇用者間の格差の固定化という点では男女差が大きく,『平成22年版『男女共同参画白書』(2010年)によると,高等教育を受けた女性(25~64歳)の就業率が,OECD諸国の中で「日本は,最も低いグループに属し」,「高等教育によって形成された女性の能力が,日本では就業の形で十分にいかされていない」からである。「社会のあらゆる分野において,2020年までに指導的地位に女性が占める割合を少なくとも30%程度」とする「2020年30%」が日本の目標として掲げられていることを踏まえて,ジェンダーの視点を取り入れた教育を展開する必要もあろう。
著者: 中村香
参考文献: ドミニク・S. ライチェン,ローラ・H. サルガニク編著,立田慶裕監訳『キー・コンピテンシー』明石書店,2006.
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報