電気機械器具工業(読み)でんききかいきぐこうぎょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「電気機械器具工業」の意味・わかりやすい解説

電気機械器具工業
でんききかいきぐこうぎょう

電気機械器具を生産する工業。経済産業省『工業統計表』では、電気機械器具工業を電気機械器具製造業として、電子機器、発電用・送電用・配電用電気機械器具(重電機)、民生用電気機器(民生用電子機器を除く)、電球・電気照明器具、蓄電池等その他の電気機械器具に細分類し、それぞれの生産動向を把握している。このように電気機械器具工業は多様な製品を生産し、1983年(昭和58)以降、日本の工業全体の生産額の約15%を占め、生産額でも、従業者数の点でも日本最大の製造業となっている。なお、電子機器については「電子工業」を参照のこと。

[大西勝明]

外資依存の展開

日本での電気機械の製造は、1873年(明治6)のプロイセン人技師の指導の下での練習用モールス電信機の製造に始まる。一方、アメリカでモース(モールス)が初めて実用電信機を完成したのは1837年であり、日本は、30年ほど遅れてアメリカを追うことになる。一方、電信事業に続いて日本でも電灯供給事業が開始され、照明を通して革命的な変化が起きている。

 1879年、エジソンが炭素フィラメント電球を完成し、世界最初の電灯会社であるエジソン・イルミネーティング社が電灯供給を開始したのが1882年であった。1890年に白熱舎(東芝の前身)が、日本最初の国産電球を生産している。日本では明治初頭に電信事業と電灯供給事業が誕生してはいたものの、存立基盤は脆弱(ぜいじゃく)で、電球生産、重電機生産は輸入品に圧倒され、本格的な生産は外国資本に依存せざるをえなかった。東芝の前身の東京電気は、1905年、アメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)社に55%の株式を、重電機部門の芝浦製作所も1909年にGE社に25%の株式を引き渡している。また、日本電気NEC)はウェスタン・エレクトリック社と、三菱(みつびし)電機はウェスティングハウス社と、富士電機はドイツのシーメンス社と、いずれも資本提携を行っての従属的な展開をたどることになる。ただ、日立製作所のみはこの時期に外国資本との関係をもつことがなかった。日立製作所を除く重電機を内包する代表的ないわゆる総合電機メーカーは、1900年代初頭、外国資本に依存して生産を本格化している。

 その後、第二次世界大戦期には輸入品が途絶し、外国資本の引上げがあり、日本の電気機械器具工業は、国産化を余儀なくされた。こうした過程において電気機械器具工業は、旧財閥による重電機分野の支配を伴いながら生産を拡大している。そして、国民の購買力の低さと軍事政策のために、消費財としての電気機器の普及は、ラジオ、アイロン電気ストーブ扇風機などが一部定着した程度にとどまり、著しく遅れをとっていた。アメリカ軍の日本本土攻撃の際には、電気機械器具を生産する工場が兵器生産に加担していたことから主要な攻撃目標となり、大きな被害を受けた。戦後、1948年(昭和23)には過度経済力集中排除法により、東京芝浦電気(東芝)、日立製作所は、集中排除措置を受けている。

[大西勝明]

第二次世界大戦後復興とインフラストラクチャー整備

第二次世界大戦直後、1946年(昭和21)まで、電気機械器具工業は進駐軍と鉄道向け重電機器生産に重点を置いていた。1946年、政府により傾斜生産方式が決定された後、進駐軍向け需要は減少してゆき、かわって電力、石炭関連の重電機器の需要が突出してくる。電気機械器具工業は、重電機器を中心に外国技術に依存し、産業基盤形成に寄与しつつ戦後復興を実現している。

 1950年代初頭においては、電源開発ブームと関連して重電機需要が拡大している。ただ当時、生産の過半を占めていた国産の水力発電機の技術水準は国際レベルにあったが、火力発電機に関しては、海外諸国との技術格差が大きく、外国資本との技術提携を復活せざるをえなかった。1950年(昭和25)の外資法(外国資本に関する法律)の制定後、東芝はGE社と、三菱電機はウェスティングハウス社と、富士電機はシーメンス社と重電機製品に関する包括契約を結んでいる。日立製作所も、53年GE社とタービン発電機に関する契約を締結することになる。また、55年以降、発電法が火主水従へと移行するなかで、火力発電用機器の輸入が増大した。再度、技術を外国資本に依存し、東芝、日立製作所、三菱電機、富士電機のほか、明電舎安川電機高岳製作所等代表的な重電機メーカーが、重電機生産に参画した。

 さらに、1950年代、電気機械器具工業と電力会社の提携により、原子力発電の実用化が開始された。57年には日本原子力発電株式会社が設立され、まず、イギリス製のガス冷却炉GCR)を導入し、65年、2号機としてGE社製の軽水冷却炉(BWR)を導入している。その後は現代に至るまで、この分野での自主技術開発が目ざされている。他方、1950年代には家電製品に電気洗濯機が加わった。53年には、NHK、日本テレビが放送を開始し、テレビ受像機の生産が増加した。その結果、関連した技術導入が活発化し、さらに、1952年に日本電信電話公社(現NTTグループ)が、通信事業を統括することになり、53年に第一次5か年計画が策定された。これ以降、NTTは日本の通信技術をリードする役割を果たし、関連して通信機器生産が拡大している。

[大西勝明]

電子工業への重点の移行

第二次世界大戦直後の復興期に主導的役割を果たした重電機器は、高度成長期において徐々にそのウェイト(比重)を落としてゆき、かわって家電、民生用電気機器、電子機器の生産額が大きな割合を占めることになる。電子工業の急台頭に伴い、製造業全体に占める電気機械器具工業の相対的な位置が上昇した。1950年代後半以降、個人所得の増加を基盤として家電消費ブームが起き、重電機メーカーも、新興メーカーもこぞって「三種の神器」といわれた白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫を中心に民生用製品の量産体制を確立した。このため、東芝、三菱電機、日立製作所の3社は、総合電機メーカーとされることになった。また、官公需要に依存して通信機器生産高も増大した。

 他方、相対的な低賃金、量産体制を基盤にして強力な国際競争力が構築され、とくに家電製品の輸出が増大し、アメリカとの間で貿易摩擦が生じた。1968年(昭和43)には、アメリカ電子工業会(EIA)が、日本のカラーテレビに対しダンピング提訴を行っている。重電機器の輸出額も、1955年の約40億円から、60年代に入っての東南アジアへの水力発電プラントの急拡大に支えられ、65年には412億円にまで増大している。65年以降、重電機の輸出依存度は、それまでの数%台から10%台へとウェイトを増大させ、また、水力発電プラントにかわって火力発電設備が過半を占めることになる。輸出先は、やはり、東南アジアが中心であったが、年々その比率は低下し、ヨーロッパや北米が増大した。輸出のみではなく、主力電気メーカーは、1960年代に対外直接投資を実行し、海外に生産拠点や販売拠点を設けている。一般に、アジアではマイノリティ出資で生産拠点を、北米、ヨーロッパでは100%出資で販売拠点が設置されている。

[大西勝明]

主導的地位の動揺とリストラクチャリング

1970年代以降、オイル・ショック、世界同時不況が起こり、IC(集積回路)やコンピュータやVTRの生産量が増大したことで電子工業がいっそう生産を拡大した。なおも、1971年のインテルによるマイクロコンピュータの開発に起因するマイクロエレクトロニクス革命(ME革命)を引き起こすなど、電子工業は産業全体に革新的な役割を果たすことになる。それゆえ、日本において、1975年に全製造業出荷額の8.5%を占めていた電気機械器具工業が、89年(平成1)には、17%を占めることになった。日本産業全体も基礎素材産業主導から加工組立産業主導にシフトすることになり、自動車工業や電気機械器具工業が、日本の製造業のバックボーンとなっている。とくに、1983年に電気機械器具工業の生産額が約31兆円となり、自動車工業を含む輸送用機械器具分野の生産額を抜き、それ以降、電気機械器具工業が日本最大の製造業となっている。その後、電気機械器具工業は、いっそう国際化し、また、1990年代に突入し、冷戦体制崩壊後の世界的な大変革とバブル経済の崩壊に直面して、リストラクチャリング(事業の再構築)を余儀なくされている。91年に1万0012か所あった従業員30人以上の事業所は、96年には8302となり、この間従業員数は、165万3056人から144万1806人へと21万人以上減少している。生産額は、1991年には55兆6872億円であったが、96年には55兆3069億円であり、91年水準が回復していない。

 そのうちの重電機器の場合は、相対的により厳しい状態にある。1996年の従業員30人以上の2118事業所の生産額は7兆7819億円で、91年の9兆4169億円よリ大幅に低下している。この間、電気機械器具工業に占める重電機器の比率が16.9%から14.1%へと2ポイント以上低下している。電気機械器具工業の内的構成は、重電機器ではなく電子工業主導に、電子工業もサービス化、ソフト化を指向している。したがって、総合電機メーカーの多くは、重電機部門を分社化しようとしているし、重電機部門においては、国際的な産業再編成が進みつつある。1999年、日立製作所、東芝、GE社は、火力発電機器に関する国際的な提携を進め、同時に3社は、原子力開発事業のうち、原子炉など機器製造部門以外の統合化を計画し、とくに、核燃料製造会社の合弁化を具体化している。関連して、3社の日本国内での核燃料シェアの合計は45%であるが、公正取引委員会が国内シェアのみで独占状態を判断することは不適切との立場をとるような状態にある。

 その他、電気機械器具工業には、280事業所、生産額約1兆円、4万人弱(1996年)の従業員を擁する蛍光ランプ、一般照明用電球、HIDランプ等の生産分野や、生産額6143億円(1996年)の蓄電池製造がある。蓄電池製造については、電気自動車の開発と関係する新型高性能鉛蓄電池の生産が注目されている。

[大西勝明]

『山田亮三・竹中一雄・三輪芳郎著『電気機械工業の展開と現段階』(有沢広巳編『現代日本産業講座 第Ⅵ巻 電気機械』所収・1960・岩波書店)』『三輪芳郎著『電気機械工業』(狭間源三・木村敏男編『現代日本産業論 新版』所収・1979・法律文化社)』『産業学会編『戦後日本産業史』(1995・東洋経済新報社)』『日本工業新聞社編・刊『日本工業年鑑』(各年版)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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