傾斜生産方式 (けいしゃせいさんほうしき)
第2次大戦による破壊から生産を回復させるために,1946年末から翌年にかけてとられた生産拡大のための経済政策。有沢広巳が創唱者だといわれている。有沢によれば,傾斜生産方式とは〈われわれの手中にあり,われわれの処置しうる唯一の基礎的素材たる石炭の生産に向ってすべての経済政策を集中的に傾斜せしめよう……経済を計画的に傾斜せしめて基礎的部門の生産を早急に引上げ,これを基礎にして生産水準の上昇の契機をつくり出す〉というプランであった。終戦直後の日本の生産水準は,戦前の10%以下だったと思われ,この方式がたてられた当時でもせいぜい30%程度であり,しかも消費財が生産財を上回る状態で,放置すればストックの食いつぶしから縮小再生産に陥ることが予想されていた。時の吉田茂内閣がこれを拡大再生産へと切り替えるべく採用したのがこの方式である。
具体的には,占領軍から輸入を認められた重油を全部鉄鋼業に投入し,そこで増産された鉄鋼を石炭生産に投入し,さらに石炭を鉄鋼に投入するというくり返しでこの2者の生産をまず拡大させる。それがある水準まで高まったところで,石炭を順次鉄鋼以外の基幹部門へまわし,全体として生産を拡大させようというのである。当時の石炭生産は2100万t(戦時中の40%弱)に落ち込んでおり,鉄道用と占領軍用を差し引くと,産業用炭はほとんど残らなかった。それを47年度には3000万t出炭し全体の生産拡大を図ろうというのである。
この計画は吉田内閣,片山哲内閣を通じて実行され,目標はいちおう達せられた。もっともこの計画を裏付けるための資金は復興金融金庫を通じてまかなわれたため,いわゆる復金インフレが激発し,その後を追って価格差補給金が大規模にのぼって財政負担を増加させるという一面も避けられなかった。
執筆者:林 健久
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傾斜生産方式
けいしゃせいさんほうしき
第二次世界大戦終結後、日本経済の立て直しのためにとられた重点主義的な生産政策。1945年(昭和20)の敗戦後の日本経済の破局的状態に対し、翌46年12月24日の閣議決定により、政府は石炭・鉄鋼の基幹産業部門に、資材・資金・労働力を重点的に配分し、それを基軸にして、戦後日本における独占資本主義の再生産を軌道にのせようとした。この「石炭・鉄鋼超重点増産計画」の提唱者たる有沢広巳(ありさわひろみ)のことばによれば、「われわれの処置しうる唯一の基礎的素材たる石炭の生産に向かって、すべての経済政策を集中的に傾斜せしめよう」とするもので、47年度の石炭生産目標を3000万トンに置き、一方で輸入重油と石炭を鉄鋼部門に重点的に投入、そこで生産された鋼材を石炭部門に集中的に投入し、他方、逆にそこで増産された石炭を鉄鋼部門に振り向け、いわば鉄と石炭の循環的拡大再生産を図ろうとした。当時の危機的な生活条件のなかで、炭鉱労働者には食料・衣料の加配、さらに復興金融金庫による重点融資によって、労働力・資金の集中投入も図られた。
1947年5月に成立した片山哲内閣は、新たに食糧生産と輸出部門をも重点産業とした。占領政策の転換もあって、この傾斜生産は48年ごろから実効を示し始め、とくに同年1月からの鉄鉱石と粘結炭との輸入は決定的意義をもった。なお臨時石炭鉱業管理法はこの傾斜生産方式の発展したものといわれる。
[加藤幸三郎]
『有沢広巳編『現代日本産業講座1』(1959・岩波書店)』
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傾斜生産方式
けいしゃせいさんほうしき
1946年から 49年まで,第2次世界大戦後の経済復興のための重点生産政策として実行された産業政策の呼称。「石炭,鉄鋼超重点増産計画」という名のもとに推進された。経済復興に必要な諸物資,資材のうち石炭,鉄など,いわゆる基礎物資の供給力回復が最も急務であるという観点から,これら部門に資金,人材,資材などを重点投入する政策をとった。これにより石炭,鉄鋼の生産が大きく回復するなど一定の成果を上げたが,復興金融金庫 (のちの日本開発銀行) から大量の融資が行われ,急激なインフレーションの一因となった。このため 49年のドッジ・ライン実施により終止符を打たれた。
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「傾斜生産方式」の意味・わかりやすい解説
傾斜生産方式【けいしゃせいさんほうしき】
第2次大戦後の日本経済の体制的危機と過小生産を克服するため採られた重点主義的生産政策。1946年下半期から石炭をはじめ電力・鉄鋼等の減産が著しくなったため,1947年初めからすべてが鉄鋼・石炭の生産に集中され,その循環的な増産により基礎産業の復興が図られた。
→関連項目経済安定本部|筑豊炭田|復興金融金庫
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傾斜生産方式
けいしゃせいさんほうしき
第1次吉田内閣期に,GHQの戦時補償打切りで大打撃をうけた日本経済を復興させるため,石炭・鉄鋼両産業に重点的に資金・資材を投入するよう策定された産業政策。1946年(昭和21)12月第1次吉田内閣が決定,片山・芦田両内閣が引き継いで,48年まで実施。石橋湛山蔵相や,有沢広巳を委員長とする石炭小委員会の手で構想がまとめられた。鉄鋼・石炭増産をバネに年間3000万トンの出炭を計画,片山内閣のもとで達成された。具体的な推進手段は,物資の割当制と復興金融金庫融資および価格差補給金であった。この結果48年には日本経済は拡大基調を回復した。
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傾斜生産方式
けいしゃせいさんほうしき
第二次世界大戦後の〈原材料不足→生産低下→インフレ〉の悪循環をたちきるために行った石炭・鉄鋼重点生産の方式
有沢広巳を委員長とする石炭特別小委員会によって1946年末に構想され,'47年6月片山哲内閣の「経済緊急対策」の中核にすえられた。出炭を強化しつつ鉄鋼部門に重点配炭し,鉄鋼生産の拡大を通じて経済の均衡回復をはかろうとしたもの。'49年ドッジ‐ライン実施まで継続された。
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世界大百科事典(旧版)内の傾斜生産方式の言及
【石炭鉱業】より
…1945年12月には石炭総合対策の推進体として石炭庁が設置され,石炭増産に取り組んだ。しかし石炭鉱業の再建は遅々たるものであり,46年12月石炭,鉄鋼中心の[傾斜生産方式]が閣議決定された。この方式はGHQより重油の供給を受け,この重油で鉄鋼を増産し,この鉄鋼で石炭を増産し,産業界のエネルギー問題を解決することによって経済の再建をめざすという計画であった。…
※「傾斜生産方式」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」