日本大百科全書(ニッポニカ) 「電子工業」の意味・わかりやすい解説
電子工業
でんしこうぎょう
電子機器を生産する工業。電子機器は、通常、(1)通信機器・コンピュータなどの産業用電子機器、(2)テレビ、VTRなどの民生用電子機器、(3)半導体などの電子部品に3分類されている。電子工業は、第二次世界大戦後に急速な発展を遂げ、革新的な役割を果たし、いまや日本最大の製造業として注目されている。
[大西勝明]
技術導入に依存した民需量産化生産
日本の電子工業は1960年代に急速に台頭してきた産業であり、コンピュータやIC(能動部分と回路部分を一つの基盤に分離不能の状態で結合した集積回路)に代表されるように、とくにアメリカからの導入技術に依存し、発展を遂げている。コンピュータの場合、日立製作所はRCA、三菱(みつびし)電機はTRW、東芝はゼネラル・エレクトリック(GE)社、沖電気工業はスペリーランド社、日本電気(NEC)はハネウェル社と、いずれも1960年代初頭に外国資本との提携をスタートさせている。ICの場合は、1962年、NECがプレーナ技術を導入し、生産を本格化させた。通信・電子分野の技術導入に関する限り、1970年の段階で、技術輸出の技術導入に対する割合は0.136であり、技術輸出額は、技術導入額の20%にも達していなかった。
高度成長期には、株式市場の未発達に加え低金利政策がとられた結果、間接金融体制が主軸となり、日本銀行、都市銀行を経て巨大企業に資本が供給されてきた。こうした体制の下で企業グループ、とくに六大企業集団が重化学工業化の推進母体となり、翼下企業が電子工業に参入した。1960年代、こうした体制と連動して、「三種の神器」といわれた白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機の出現によって、いわゆる民生用電子機器の生産が急拡大している。
また、アメリカにおいてICが開発されたのは、当時のアポロ計画をはじめとする軍需的な目的のためであったが、日本の場合、技術導入の主体は、NECをはじめ民需生産を主力とする企業であり、民需量産化といった形態で日本のIC生産が拡大している。日本においても一部に軍需市場があり、民需部門だけが電子工業を支えたわけではないが、導入技術を基盤にスケールメリット(規模の利益)を求め、民需量産化を指向するというのが、1960年代、70年代の日本の電子工業の主要な展開軌道であった。ただし、日本の消費市場は狭隘(きょうあい)で、アメリカの国内消費市場ほどには大きくなく、そのため生産財生産部門のウェイト(比重)が非常に高くなっている。それだけに、海外市場の拡大が不可欠であり、とくに、1970年代後半、電子工業は「土砂降り的輸出」と形容されたほど輸出額の激増が目だった。
電子工業の展開を支えたもう一つの要因は、低金利政策とも関連する産業政策である。電子工業に対する政府の産業政策の影響は大きく、とくに1960年代には欧米へのキャッチアップ(欧米に追いつく)が政策課題であった。1960年代からすでに、日米間では激しい貿易摩擦が生じており、アメリカはベトナム戦争の挙行、ドル・ショックを招くといった厳しい経済情勢下で、日本に市場開放を迫ることになる。これに対し日本は、開放体制を指向しつつもコンピュータについては、1971年(昭和46)まで市場開放を渋っていた。また、1968年のテキサス・インスツルメンツ社の日本進出については、ソニーとの合弁形式で認めるなどして、通産省(現経済産業省)は外資進出を阻んでいる。他方で、1957年の電子工業振興臨時措置法以降、数次にわたって、機械工業振興、情報産業振興に関する臨時特別措置法を制定し、国内の電子工業の育成を意図した税制、開発資金援助等々、多様な便宜を図っている。なかでも注目されるのは、1976年、民間が約350億円、政府が約350億円を出資し、256KDRAM(メモリー)開発を課題として新設した超LSI技術研究組合の発足である。このプロジェクトは成功し、その後、日本がメモリー分野での開発に先行し、1社単独でもNEC等が売上高世界一のIC企業となり、日本市場は北米を上回る巨大市場に育っている。その際、産業用電子機器、民生用電子機器等が、ICの大きなユーザーとなっている。
[大西勝明]
激しさが増す国際競争
1974年から2年にわたる世界同時不況以降、低成長の時代にも日本企業が減量経営の追求等により相対的に高いパフォーマンス(実績)を達成したことから、日本的経営や日本的生産システムが世界的な注目を集めることになる。日本電子工業の1980年代は、後半バブル経済に直面するが、世界の最前線に躍り出た時代であった。とくに、半導体の場合、政府の支援を受けた超LSI技術研究組合の成功もあって、日本のメーカーは、ICの次世代開発に先行し、世界最大の生産額を達成し、日本半導体市場は世界最大の市場となっている。さらに、1971年のマイクロコンピュータの開発を基盤に、日本でも80年以降生産の自動化が展開することになり、電子工業が、他産業のマイクロエレクトロニクス(ME)化やオフィスオートメーション(OA)化を推進している。
他方、1977年のアップルⅡ型に代表されるように、1970年代後半にはパーソナルコンピュータ(パソコン、PC)が製品化されている。当時、大型機に関しては、IBMが世界の巨大企業として君臨していた。だが、IBMの日本進出は、通産省(現経済産業省)の政策により規制されており、他国に比べると、日本の国内でのIBMのシェアは低めに抑えられていた。逆に、大型機の分野で1970年代、80年代と、富士通はじめ国産機のシェアがしだいに高まっていった。さらに、90年代にはPCがコンピュータ生産のなかでトップの座を占め、パソコンの時代に突入することになるが、独特の日本語処理機能という障壁に支援され、NECの98シリーズが、PC市場で独占的な状態を確立していた。こうして電子工業の出荷額は、1980年の9兆0053億円から90年の24兆1510億円を経て、2000年の26兆1996億円まで、停滞期はあったものの拡大を続けた。ただし、内的構成は変化しており、80年には、産業用電子機器、民生用電子機器、電子部品の生産構成比は、それぞれ38%、32%、30%であったが、90年には、それぞれ、47%、18%、35%、2000年は47%、8%、45%に変化している。産業用電子機器とそれに続く電子部品の台頭に対し、民生用電子機器の落ち込みが顕著である。電子工業は、金融、自動車産業とともに、当時の日本経済の勢いを示した『ジャパン・アズ・NO.1』(ボーゲル著の書名)を象徴する存在となっている。
他方、とくにアメリカとの間で経済摩擦が深刻化し、1985年9月にはプラザ合意に持ち込まれ、急激な円高状況が生起した。それだけでなく、アメリカとの間で日本経済の構造改革が協議され、内需拡大や規制緩和を迫られることになる。通信分野の独占企業である日本電信電話公社の民営化(1985)により、電電ファミリーといった体制が変容し、新たな企業参入や国際化の進展があり、電子工業は国際的規模での競争にいっそう駆り立てられている。
また、1985年以降、円高不況に直面して鉄鋼業などでは大合理化計画を発表し、他事業分野の開拓を検討している。その際の重要な活路が電子工業であり、こぞって、提携、M&A(企業の合併・買収)等多様な手段を駆使して電子工業への参入を試みている。鉄鋼各社がIC生産やソフトウェア事業に乗り出したが、過半のプロジェクトが、失敗に至っている。また、日本では21世紀を迎えるまでに100万人近いソフトウェア技術者が不足するというソフトウェア・クライシスが指摘され、関連して1988年には「頭脳立地法」(「地域産業の高度化に寄与する特定事業の集積の促進に関する法律」)が制定され、地域でのソフトウェア事業が勃興、拡大した。
一方、1980年から85年までの電子工業の輸出は、年平均増加率16.3%の割合で増加し、内需とほぼ同水準で増大している。しかし、85年から89年までの増加率は0.7%にとどまっている。前年より下落した86年以降、輸出は、1980年代後半右上がりに拡大した内需を大きく下回り、91年まで両者は大きく乖離(かいり)している。そして、1987年を境に輸出の首位を占めていた民生用電子機器が産業用電子機器、電子部品に抜かれ、輸出の序列が変化している。1980年に輸出全体の45%を占めていたカラーテレビなど民生用電子機器が、89年には22.8%にまで急減した。こうした傾向を導いたのが、日本メーカーの海外生産の拡大である。1985年の電気機械の対外直接投資額は約5億ドル水準であったが、その後、90年は約57億ドルに達し、1980年代後半には対外直接投資額が11倍も増大し、製造業のなかで大きなウェイトを占めている。85年以降、電子工業等は、日本的生産システムを先鋭化し、国内で生産を拡大し、海外に輸出を展開するという体制を崩され、海外生産を本格化していく時代に突入している。
[大西勝明]
バブル経済の崩壊と電子工業の対応
電子工業をめぐる1990年代の状況は、国内的、国際的に激変している。90年代の電子工業は、バブル経済の崩壊を迎え、他方では、アメリカの再生、韓国、台湾の追い上げ、メガコンペティション(大競争)に直面している。90年代の電子工業の生産は停滞しており、出荷額が91年に25兆3035億円のピークに達し、その後下落し、97年にやっと25兆7000億円に回復している。輸出の場合も1993年を底に落ち込んでおり、91~95年の輸出の年平均増加率は2%台となっている。全体として電子機器の輸出は現状維持的に推移しており、生産量ほどは落ち込みが大きくないのが特徴である。とくにアジアへの輸出が増大しており、とりわけ、電子部品への傾斜が強くなり、97年には全体の61%を占めるにまでなっている。1980年代のアメリカへの輸出にかわって、アジアの日系工場向け電子部品輸出が増大している。他方、輸入は、91年の2兆1000億円が、97年に5兆7000億円となり、金額面でかなり増大している。民生用電子機器ではテレビ等の逆輸入が増大している。ただ、産業用電子機器、民生用電子機器、電子部品の3者の割合にはあまり変化なく、民生用電子機器と産業用電子機器が少し増え、電子部品がその分減少している。それでも、電子部品の割合は97年に51%とかなり高いウェイトを占めている。
円高による価格競争力の低下、アジア向け直接投資の拡大の結果、東南アジアが日本電子工業の巨大な生産基地となり、アジア諸国の経済と対日関係が変容している。
国内では、バブル崩壊、とりわけ、コンピュータの最大需要先であった金融業の受けたダメージとその電子工業に与えた影響は大きく、第4次オンライン化は頓挫(とんざ)し、そのこととの関連もあって市場は急速に低迷している。コンピュータ市場が低迷するなかでPC生産が1995年にはコンピュータ生産の過半を占めることになるが、そのことは、アメリカのマイクロソフト社のOS(基本ソフト)のウィンドウズとインテル社のMPU(中央処理装置)が市場を支配する、いわゆるウィンテル体制の拡充を意味し、MPUもOSも外資に支配され、技術的にも市場規模の面でも日本勢の退潮を導いている。
アメリカは、危機的経済状況を背景に、1980年代以降、産業の国際競争力強化を課題とした国際的規模での戦略を展開し、リストラクチャリング(事業の再構築)をより高次な次元で追求している。国際競争力評議会等を設置し、戦略産業領域として情報通信分野を位置づけ、日米半導体協定を結び、情報スーパーハイウェー構想を提唱し、一国的枠組みを超えた国際的な対処をしている。そして、1996年には通信法を制定し、新たな業界統合の可能性を開くことになる。97年には、WTO(世界貿易機関)において基本的に電気通信事業を自由化すると提唱、98年には電気通信市場開放についての多国間合意にこぎつけている。アメリカは、一方では地域的な経済圏を強化しながら、他方ではグローバルな活動を可能とする体制を指向し、情報通信の国際化を進め、情報通信と金融事業の世界的な覇権を目ざしている。
バブル経済の崩壊のなかで、アメリカの再生とNIES(ニーズ、新興工業経済地域)の台頭に直面し、日本の電子工業は業績を悪化させ、抜本的なリストラクチャリングを展開することになる。事業分野の見直し、不採算事業の切り捨て、新規事業の模索、別会社化、持株会社の導入、従業員の削減、戦略的提携の解消と結成、国際的な規模での産業再編成の推進と可能な限りの戦略が追求され、資本蓄積構造の再構築が推進されている。各社とも、ハード事業を縮小し、ソフトやソリューション(通信とコンピュータ利用による課題解決)事業に重点を移そうとする傾向が顕著である。ハードでも、メモリー中心のIC生産ではなく、システムLSIや情報家電等の開発に力点を置くことになっている。さらに、国際的な規模で産業再編成が進行しており、対応しだいでは、倒産を余儀なくされている。事実、1990年代初頭、情報サービス業においては倒産が相次ぎ、政府に対して最大の雇用調整助成金申請をしている。そして、通産省『工業統計表』によれば、電子工業の従業者は、91年の約47万4000人から97年には42万4000人へと約5万人も減少しているのである。
このように、電子工業が、今後、激化する国際競争の下で、産官学協力や企業系列を超えた提携を通してどれだけ国際標準をもつ製品を開発しうるのか、インターネット、Eコマース(電子商取引electronic commerce)等をどのように取り込んでいけるのかが重要な課題となるであろう。
[大西勝明]
『日本電子機械工業会編・刊『電子工業の動向』(各年版)』▽『日本電子機械工業会編・刊『電子工業50年史』(1998)』▽『電波新聞社編・刊『電子工業年鑑』(各年版)』▽『大西勝明著『日本半導体産業論』(1995・森山書店)』▽『大西勝明著『大競争化の情報産業』(1998・中央経済社)』▽『日本電子工業振興協会編・刊『2010年の電子・情報産業ビジョン』(2000)』▽『竹内淳彦監修『電機・電子工業』(2006・岩崎書店)』