韮生郷
にろうごう
現香北町のうち西川地区を除く地域と、現物部村のうち上韮生川流域一帯(上韮生郷)を郷域とする、中世から近世にかけての郷。北東は阿波国祖谷地区、北西は長岡郡豊永郷(現大豊町)、東は香美郡槙山郷(現物部村)があり、いずれも険しい山嶺や渓谷を境とするが、南西には陸路が通じ、あるいは物部川による水運が開けていた。韮生野に縄文・弥生の遺跡があり、同所鎮座の式内社大川上美良布神社の「美良布」は韮生から転じたものともされ、韮生の地名の起源は古い。
延慶二年(一三〇九)三月二〇日付の大忍庄政所書状(蠧簡集木屑)に「土佐国大忍庄槙ノ山与山田韮生山堺方至之事」とあり、韮生(山)がすでに広域地名として使用されている。また朴木の高照寺の地蔵菩薩の銘に永徳三年(一三八三)の年号と「大仲臣道兼」の名がみえ、郷内柳瀬村(現物部村)の阿弥陀堂所蔵大般若経奥書にも「応永五年大檀越等山田殿沙弥道鑒」とあって、楠目城(現土佐山田町)城主大中臣(山田)氏の勢力が及んでいたことがわかる。そのほか中世文書には、「韮生山」「韮生郷」「ニラウ庄」の記載が散見し、天正一六年(一五八八)の長宗我部地検帳の表書は「山田郷ノ内韮生谷地検帖之事」とある。山田氏の支配はいったん大忍庄西川・槙山方面にまで及んだが、韮生郷内の長宗我部地検帳には、日御子村を除いて検地による新たな「出分」の記載はなく、村ごとに「先ノ高三貫ト有」の類の添書をした例が多い。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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