朴木村(読み)ほおのきむら

日本歴史地名大系 「朴木村」の解説

朴木村
ほおのきむら

[現在地名]香北町朴の木・大束おおつか

谷相たにあい村の南方物部ものべ川北岸に位置し、西は日御子ひのみこ村、東は木戸きど谷を境に長野ながの村。河岸段丘は豊かな谷水に恵まれて古くから開発され、中世・近世を通じて韮生にろう郷内で最も生産性が高く、政治・文化の中心地であった。日浦古味ひうらこみ村北方の権束ごんそく御在所ございしよ山中腹の大久保おおくぼ大屋敷おおやしきなど遠隔の集落が近世には朴木村に属するが、これは朴木村にいた郷大庄屋の直支配の下にあったためと思われる。

天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳は「自是朴ノ村」として一三八筆一五町五反三四代(田分一二町余・畠屋敷三町四反余)を記すが、村の東部、現在高照こうしよう寺のある辺りに平石の土居横川の土居、南の土居、前田の土居が集中、その間に一反二五代の「政所ヤシキ」があり、長宗我部氏の韮生郷における代官野中三郎左衛門が居住。四つの土居のうち前田の土居以外は他姓の給地にあてられているが、前田氏は山田氏時代から長宗我部氏の時代へと命脈を保ち、近世韮生郷の大庄屋となったので、引続きこの土居に住んだのであろう。


朴木村
ほおのきむら

[現在地名]新湊市朴木

西神楽にしかぐら川右岸、松木まつのき村の東方に位置。かつては朴野ほおのと称したという。寛永(一六二四―四四)頃の村立てとされ、金屋かなや(現高岡市)の枝村かつ中曾根なかそね(現同上)からの出村である(新湊市史)。一帯には湿田が広がり、西神楽川への排水路の分岐点にあたる。灌漑は牧野まきの用水と万治元年(一六五八)に湧泉を水源として開削されたきゆうヶ用水からで(「郡事摘要」折橋家文書)、末端の水流を堰上げる水門があった。正保郷帳では高四〇一石余、田方二四町二反余・畑方二町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高四六四石、免五ツ、万治元年の新田高一九石、小物成は川役五匁(三箇国高物成帳)


朴木村
ほおのきむら

[現在地名]氷見市西朴木にしほおのき

北東は十二町じゆうにちよう村、南は万尾もお村、南西は中谷内なかやち村。二つの谷があり、本村集落は十二町潟を南東に臨む南側の谷間の奥にあり、北の谷間に垣内のしん谷内やちがある。本村集落背後の丘陵に朴木川の水源があり、集落の中を通り平野部に出て十二町潟へ注ぐ。村名の由来について、温故集録(加越能文庫)に「昔年朴木村万尾村中谷内村此三ケ村之惣名相浦あいうら村と申由申伝候、村名之由来ハ相知不申候、其後村分リ申時分朴木と申家名之百姓罷在ニ付朴木村と唱申由申候」とある。


朴木村
ほおのきむら

[現在地名]挟間町朴木

埴坪はねつぼ村の北方を東流する賀来かく川右岸に沿う。府内・日田往還が通る。同川に黒野くろの井路のウマンセ取水堰がある。江戸時代を通じて府内藩領で、中郷内成組に属した(府内藩記録)。正保郷帳に村名がみえ田高一八石余・畑高五二石余、挟間庄に所属。松山ありと注記される。元禄一〇年(一六九七)の府内領郷帳(府内藩記録)では高八八石余、うち一四石余が新田。旧高旧領取調帳によれば高一二四石余。貞享四年(一六八七)東畑ひがしはた(現別府市)鬼島きじま村で由布川から取水する朴木井路が完成した。


朴木村
ほおのきむら

[現在地名]安塚町朴ノ木

薬師やくし峠を水源にして北流する朴ノ木川の右岸、長倉ながくら(六一〇・二メートル)の南西斜面の標高約四〇〇メートル付近に位置。北は菅沼すがぬま村、ほかは丘陵にはばまれる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「狩野弥三郎分ほおの木村 中」とあり、本納二石二斗五升・縄高一一石四斗六合、家三軒・一一人。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高二二石八斗余。


朴木村
ほおのきむら

[現在地名]伊南村恥風はじかぜ

恥風村の舘岩たていわ川下流対岸にある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「朴木 拾六石二斗一升」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)では同高で免二ツ八分。寛文五年(一六六五)の伊南郷村々改帳(馬場家文書)によると高三五石余、免二ツで年貢は金納。畑のみで七町三反余。家数六・竈数六、男一八・女一〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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