音羽庄(読み)おとわのしよう

日本歴史地名大系 「音羽庄」の解説

音羽庄
おとわのしよう

現高島町音羽を中心とする平安期よりみえる庄園で、「輿地志略」は音羽・打下うちおろし伊黒いぐろはた鹿ししの五ヵ村、あるいは音羽・打下・石垣いしかけ青冷寺せいりようじ永田ながた宮野みやのの六ヵ村を庄域とすると記す。長保三年(一〇〇一)六月二六日、平惟仲が白河喜多院(寂楽寺)に施入した「高島郡大田庄壱処」に「字音羽」と注記されている(「平惟仲施入状案」高野山文書)。長久三年(一〇四二)一二月二〇日の寂楽寺宝蔵物紛失状案(同文書)にも同様の記載がみられ、四至を「東限海 南限志賀堺 西限下立嶺 北限高嶋勝野浜勝須阡陌」と記す。その後、禅林ぜんりん(現京都市左京区の永観堂)の領有となり、治承三年(一一七九)八月一八日、禅林寺所司は音羽庄内への国役・勅事・院事の賦課停止を後白河院に求め、許可されている(「後白河院庁下文」尊経閣文庫所蔵東寺文書)。ただこの時、禅林寺では当庄について「音羽庄僅七八町」と記しており、その領有権は音羽庄の一部だけにすぎなかったのかもしれない。寛喜三年(一二三一)九月、伊勢神宮への勅使参向にあたって、近江国内の庄園に駅家雑事が賦課された時、「石山領音羽庄」ではその免除を官に申請、これを却下されている(「民経記」同年九月一三日条)


音羽庄
おとわのしよう

阿山町音羽に比定。治承四年(一一八〇)五月一一日付皇嘉門院惣処分状(九条家文書)に京都法性ほつしよう寺の子院最勝金剛さいしようこんごう院領として「をとは」とみえる。最勝金剛院は皇嘉門院聖子の母宗子(藤原忠通室)によって創建されたもので、久寿二年(一一五五)宗子が没すると、その唯一の出生であった聖子がこれを相伝したと思われる。

この惣処分状に「これらはいつこもよしみち(良通)のおさなかりしに、みなたてまつりき、それをさいそうこんかう院ハ、一の人のしられむこそよかるめれといふ人とものありしかは、いへにとりて、一の人しらるへしとて、まつ殿にと申たりしか度、(中略)まつとのたとへ□たうをハわれし覧なといふ事ありとも、もちゐらるまし」とある。


音羽庄
おとわのしよう

山科盆地の東北部、音羽山西麓に位置する荘園。詳しい荘域は不詳であるが、後の山科七郷のうち音羽郷(小山・竹鼻を枝郷とする)に散在していたらしい。

保元三年(一一五八)五月の山城国安祥寺領寺辺田畠在家検注帳案(勧修寺文書)に「女院御領音羽御庄」とあり、平安時代より立荘されていた。このときには美福門院(藤原得子)領であった。また文安六年(一四四九)四月の三宝院門跡管領諸職諸領目録(醍醐寺文書)に記された三宝院(現伏見区)支配の「門跡領敷地山林田薗等」のうちに「山城国山科内音羽庄清閑寺法華堂領」とあって、山科から山ひとつ越えた清閑寺(現東山区)領となっている。「山科家礼記」応仁二年(一四六八)六月一五日条には山科七郷の構成を記して「一郷 音羽・小山竹鼻清閑寺」とあり、この時代には郷としても清閑寺が知行している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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